最近、カズオ・イシグロをたて続けに読んだ。文庫本5冊。数年前に読んだ3冊を合わせれば、多分この作家の文庫本はこれですべてだと思う。日本語に訳された本で残るのは、『クララとお日さま』のみ。こちらは単行本だけで、まだ文庫化されていない(後記:文庫本は2023年7月25日に発行された)。
長年の習慣として、ごく一部の作家を除いては、単行本の上梓後すぐには飛びつかず、文庫化されてから読むことにしている。値段が安いこと、本棚のスペースを取らないこと、持ち運びに便利なこと、文庫化まで一定の時間を経過することで読者の評価が定まることなどが、文庫で読む理由。
今回アマゾンで注文した5冊のうち、1冊の値段が単行本並みに高かったので違和感があったのだが、中身を精査せず他の本と一緒にワンクリック購入。届いた現物を見て納得。およそ950ページの分量で、辞書みたいな厚さ。手に取るとずっしり重い。キッチンの秤に乗せると480グラム!
これじゃ文庫の意味ないじゃん、と愚痴ってしまった。分厚さに気圧されて、読んだのはもちろん最後。それはさておき、本題に入ろう。
『充たされざる者』カズオ・イシグロ、古賀林 幸訳、ハヤカワepi文庫。1650円
この本は、カズオ・イシグロの第4作目の作品。以下のごとく第1作から続けて賞を受賞し、作家としての地位を不動のものにした後に書かれた作品だ
第1作 『遠い山なみの光』:王立文学協会賞
第2作 『浮世の画家』:ウィットブレッド賞
第3作 『日の名残り』:ブッカー賞
『充たされざる者』については、ネタバレになるので詳細は書かないが、演奏で世界を旅する著名なピアニストであるらしい主人公が、招待に応じてとある街に講演と演奏にやってくる。ホテルに到着早々、スケジュールを管理する街の担当女性が待っていて、滞在中のスケジュールについて問題ないかと尋ねられる。
主人公は、おそらく事前に受け取っていたと思われるスケジュールを、よく確認していないか全く忘れてしまったらしく、手元にも持っていない。実際、街へもスケジュールより遅れて到着したようだ。しかしながら、担当者に失礼にならないように、受け取ったスケジュールで問題ないかのようにその場を取り繕ってしまう。これがもとで、3日間の滞在中のスケジュールが分からないまま進んでしまい、次から次へとやってくる突発の依頼事に応じているうちに、予定の行事をすっぽかしてしまう。
最初は、ホテルの部屋に荷物を運んだ老練なベルボーイに、問題を抱えているらしい彼の娘に会って話を聞いてやってほしいと頼まれ応じる。家庭の問題に第三者の自分は役に立てないと言いつつ、断り切れずに会ってみると、どうやらこの娘が主人公の妻のようで、その息子が自分の子供らしいということを主人公はおぼろげに思い出す。
まるで記憶喪失か認知症かと言いたくなるようなお粗末な話でスタートするのだが、万事このような具合に進行し、最後まで延々とドタバタ劇が続く。上の文中で太字表記にしたように、作品中では事実関係や詳細が明確に語られることもなく、読者にとっては曖昧なままで3日間の滞在の物語が進行していく。
私自身、正直言って馬鹿げたストーリー展開に、前半の途中でうんざりし、本を放り出したくなった。それでも読み進むと、後半は最後まで一気に読めた。ストーリーは最後まで相変わらずのドタバタなのだが、登場人物が大方出揃い、曖昧ながらも関係性や経緯のようなものがぼんやりとしてきたことによるかと思う。
「訳者あとがき」によれば、「この作品はブラック・コメディーとして書いたもので、リアリズムの小説家とは二度と呼ばれたくないというのが、本人の弁である。読者はともすれば彼の完璧なまでにコントロールされた文章や美しい叙情性に目を向けがちだったが、実はイシグロは一貫して人間の独善性や自己正当化といったテーマを追求してきた作家だけに、その独創性と力量を純粋に評価してほしいということなのだろう」とのこと。
『充たされざる者』は、批評家の間でも評価が分かれた実験的な小説なのだが、ひょっとすると主人公は作者の実体験も結構入っているのではないかと個人的には思える。前三作で作家としての地位を確立し、おそらく多種多様な取材や講演などの依頼が押し寄せたことだろう。また、旧知の間柄からちょっとした頼まれごとも増え、多忙を極めたのではないか。依頼の中には体裁を取り繕ったり、断り切れずに受けたりしたものも多かったのではないか。そんな体験を、面白おかしく作品に生かしたようにも思える。
私の推測はさておき、村上春樹がカズオ・イシグロについて以下のように語っている。
「僕が思うに、イシグロの小説の優れた点は、もちろん多かれ少なかれということだが、一冊一冊がそれぞれに異なった成り立ち方をして、それぞれに異なった方向を向いているところにある。構成も文体も、それぞれの作品ごとに明らかに、そして意図的に区別されている。しかしにもかかわらず、それぞれの作品には確実にイシグロという作家の刻印が色濃く押され、ひとつひとつが独自の小宇宙を構成している。それぞれに魅力的で、素晴らしい小宇宙だ。
しかしただそれだけではない。それらの個別の小宇宙がひとつに集められると(もちろん読者一人ひとりの頭の中で集められるわけだが、)そこにカズオ・イシグロという小説家の総合的な宇宙のようなものが、まざまざと浮かび上がってくる。
(中略)イシグロの作り上げた個々の作品がそれぞれにまわりにあるほかの作品を補完し、支えているという有様なのだ。
(中略)イシグロという作家はある種のヴィジョンをもって、意図的に何かを総合しているのだ。いくつもの物語を結合させることによって、より大きな総合的な物語を構築しようとしているのだ。僕にはそう感じられる」(村上春樹『雑文集』、新潮文庫。「カズオ・イシグロのような同時代作家を持つこと」より抜粋。P364-367)
全く異なる文体や虚構の作品が多いことから、引き出しの多い作家という印象を私も持っていたが、村上春樹はうまいこと言う。
それにしてもこの文庫本は重い!ドタバタの半分くらいは省いて簡潔にしても、この本で描きたかったことは十分伝わると思うのだが・・。1‐2時間この本を持って読んでいると、手首が腱鞘炎にでもなりそうな痛みがやってくる。まぁ、0.5キロのダンベルをずっと持ち続けているようなものなので。
下の写真右は約360ページの文庫版『日の名残り』。これが普通の文庫版の厚さだ。これに比べると、左の『充たされざる者』がいかに分厚いかがわかる。なぜ通常のように上下2巻の構成にせず、一冊としたのだろうか?
上下2巻にすると、上巻で投げ出して下巻を購入する人がぐっと減ってしまうので、売り上げ対策として無理やり一冊にしたとか・・・。実際に読んだ後では、このうがった見方が妙に説得力を持ってしまう。
読書中、本を置いて時々スマホ(iPhone12 Pro Max)を持つと、2年以上たっても日頃重いと感じるスマホが、カミさんに譲り渡したiPhone8を持ったみたいに軽く感じて驚いた(笑)。
ちなみに、iPhone12 Pro Maxの重量は約270グラム