エベレスト 1996年5月の遭難事故

レビュー

夢枕獏の山岳小説『神々の山嶺』をフランスでアニメ化した『Le Sommet des Dieux』がアマゾンプライムで配信されたというので、吹替版を視聴した。数年前に阿部寛と岡田准一をメインキャストにして『エベレスト 神々の山嶺』として日本で映画化された時には映画館に足を運んだが、原作ほど引き込まれることはなかった。今回の仏版『神々の山嶺』は、想像していたよりは原作に忠実にアニメ化されてはいたが、1時間半ほどに凝縮されているので、端折った感が強かった


プライムビデオでこのアニメ作品を探している時に、別の『EVEREST』という2015年の映画を見つけた。『神々の山嶺』の視聴後の物足りなさに、ついついこちらの2時間程の映画も見てしまった。そしてこの映画が、1996年5月10日に実際に発生した遭難事故をもとに製作されていることを知った。映画に出てきた商業登山隊の客の一人として「難波康子」さんが出てきたところで、「あの事故か」と記憶がうっすらと呼び覚まされた


アタック当日にエベレスト山頂に立った人たちのうち、商業隊の二人の隊長、ガイド一人、参加者二人の5人が帰らぬ人となった。この遭難事故は世界中で注目され、日本人の難波さんも参加していたことから、日本のマスコミでも大きく取り上げられたようだ。記憶が薄いのは、事故が発生した頃、私は二度目の米国駐在が始まったところで、ちょうどカミさんが幼子二人(5歳と2歳)を連れてやってきて、現地の生活を整えるのに追われ、世の中の出来事に目を向ける余裕がなかったことによる


当時47歳の難波康子さんは、田部井淳子さんに次いで日本人女性として二人目のエベレスト(8848m)登頂を果たし、これと同時に田部井さんに次いで日本人女性二人目の世界7大陸最高峰、通称「セブン・サミッツ」の登頂も果たしたのだが、下山途中に事故に遭い命を落とした。ちなみに、田部井さんはエベレストもセブン・サミッツも女性として世界で初めて達成しており、2016年に癌により77歳で亡くなった

<二人の当事者によって書かれた二冊の本>

映画『EVEREST』を見たものの、遭難事故の詳細は良く把握できなかった。そこで、二人の当事者によって書かれた二冊の本を読んだ

一冊目は、ニュージーランドのロブ・ホールが主催するアドベンチャー・コンサルタンツ社の商業登山隊に参加していた米国人ライターのジョン・クラカワが、当事者の一人として自らの記憶や他の参加者などへのインタビューをまとめて本にした『Into Thin Air』(邦題は『空へ』、ヤマケイ文庫、海津正彦訳)


元々ジョン・クラカワは、米国で人気のある『アウトサイド』誌から、エベレストで「急速に進行している登山の営利事業化と、付き添いガイドの問題点について書くように」(『空へ』より原文を抜粋)と依頼されて、雑誌社が費用を負担して参加していた


ジョン・クラカワ自身は、エベレストのベースキャンプ(BC)の高さ(約5370m)を超えるような高山の経験はなかったが、若い頃はアグレッシブに山に打ち込んでいた経験があり、ルポだけでなく自らもエベレスト山頂に立つことを目指して参加した。結果、登頂に成功し、嵐が酷くなる直前に無事に下山できた。ジョン・クラカワは、アウトサイド誌への記事とは別に、遭難事故のより詳細な記録を残すべく『Into Thin Air』(邦題『空へ』)を書きあげた

もう一冊は、米国のスコット・フィッシャーが主催するマウンテン・マッドネス隊でガイドの一人だったアナトリ・ブクレーエフ(カザフスタン出身)が、米国人ライターのG・ウェストン・デウォルトと共著で出した『THE CLIMB』(邦題は『デス・ゾーン8848M-エヴェレスト大量遭難の真実』、角川書店、鈴木主税訳)

アナトリ・ブクレーエフは、これまでにも無酸素で(酸素ボンベを用いず)エベレストに2回登頂しており、他の8000m峰にも登った経験を持っていた。ジョン・クラカワの『Into Thin Air』の中で、自らの行動にガイドとしての資質を問われるような記述をされたことに反論する形で『THE CLIMB』を出した

引用:「2017アドベンチャーガイズ 世界最高峰エベレスト公募登山隊募集要項」より抜粋

<エベレストへの登頂方法>
当時、ネパール側(上図の赤色の破線ルート)から10を超える登山隊が入山しており、チベット側(青色の破線ルート)からも2つの登山隊が挑んでいた(一つは日本の登山隊)。中国がチベットからの入山を長く規制していたこともあり、ネパール側から南東稜を経てエベレストに登頂するのが、当時も、規制が解除された以降も、最もポピュラーなルートになっている。ネパール側から南東稜を経てエベレストに登頂する赤色の破線ルートだ


このルートには、商業登山隊としてニュージーランドのロブ・ホールが主催するアドベンチャー・コンサルタンツ遠征隊(ジョン・クラカワや難波さんが参加した隊)や、米国のスコット・フィッシャーが主催するマウンテン・マッドネス遠征隊(アナトリ・ブクレーエフがガイドの一人を務めた隊)の他に、米国のアルパイン・アッセンツ国際隊、マル・ダフ国際営業遠征隊、プモリ-ローツェ営業遠征隊、英国のヒマラヤン・ガイド営業遠征隊などが入っていた(顧客は多国籍で構成されている)

商業隊以外では、台湾隊や南アフリカのヨハネスバーグ「サンデー・タイムズ」遠征隊、映画撮影のIMAX/IWERKS遠征隊、モンテネグロ隊、ノルウェーやスウェーデンの単独遠征隊などもいた


BCでは、アドベンチャー・コンサルタンツ隊、マウンテン・マッドネス隊、台湾隊、南アフリカ隊が、5月10日を頂上アタックと決めてバッティングすることが判明した。登頂実績の多いアドベンチャー・コンサルタンツ隊のロブ・ホールが各隊を集めて登頂日の事前調整を試みたものの合意に至らず、結局4隊が同じ日程で山頂を目指すことになった。このうち、アドベンチャー・コンサルタンツ隊とマウンテン・マッドネス隊の2隊は、ルート上のフィックスロープの事前工作で協力することにした


フィックスロープは固定ロープとも呼ばれ、難しい斜面に事前に張っておく。このロープに登山客がスリングと呼ばれる紐の片方を自分の体に、もう一方を固定ロープにカラビナと呼ばれる環状の金属製の留め具を通すことによって上り下りする。これにより、ルートから外れることを防止するとともに、万一の滑落時にもロープがフィックス(固定)されているところで止まる


昨今、力のある登山家(隊)は「アルパインスタイル」と呼ばれる方式で、荷物を極力減らし、無酸素でBCから一気に山頂を目指すスタイルをとることが増えてきたが、通常は上の図のように「極地法」と呼ばれる方式で、BCから上に向かってキャンプ1(C1)からC2、C3、C4を築き、酸素ボンベや食料などをテントにストックしておく方法をとる。5月9日の晩には翌日の頂上アタックに向けて、サウスコルのC4に3隊合わせて50人以上のクライマーが泊まっていた(この時点で南ア隊はC4に到達できていなかった)


翌10日には南アフリカ隊は力量不足でその先に進めなかったが、残り3隊は体や脳の機能が著しく低下する「デス・ゾーン」と呼ばれるサウスコルの上の南東稜へと次々に出発した。懸念された通り、ルート上で混雑を招いて登頂時間の遅滞を引き起こし、これにより下山が遅れて嵐に巻き込まれる遭難事故の一因になった


<考えられる遭難事故の要因>
『空へ』と『デス・ゾーン8848M』の両方を読み、そこから私なりに抽出した遭難要因を列記すると以下のようになる

・天候の急変
・混雑による遅滞
・登頂タイムリミット(引き返す時限)の不徹底
・山頂での滞在時間の長さ
・体調不良メンバーによる想定外の酸素ボンベ消費
・ゆとりがなくなったアタック用酸素ボンベ
・無線機の不足と配布方法
・ガイドの役割に対する認識の差
・高額参加費の対価の捉え方(安全優先か登頂優先か)
・わがまま、自分勝手な顧客の存在・不測の事態に繰り返し隊長自ら対応し、登頂前に疲れ果てていたこと
・参加者、シェルパ、ガイド、リーダーの技量や経験の差
・献身的なシェルパの一方で、保身的なシェルパの行動

・登頂への個人的な思い入れ(特に複数回目の挑戦者)
・高所障害による混乱、状況判断能力の低下
・言葉、コミュニケーション能力の不足
・極限での状況判断(人道優先か二次災害防止の合理的判断か)

などなど

ロブ・ホールとスコット・フィッシャーという稀有なリーダー二人が死亡し、ホール隊のガイド一人と顧客二人が亡くなった。ホール隊の数名は、南東稜の途中で引き返し、登頂したジョン・クラカワ同様、嵐が酷くなる前に無事にC4に下りた

一方、フィッシャー隊はタイムリミットとした午後2時を回りながらも、C4から上へ向かった全員が登頂を果たした。多くのメンバーが嵐の中を奇跡的に生還したり救出され、リーダー以外は全員無事だった

ちなみに、嵐に巻き込まれ、上記の5名が亡くなった10日以外にも、前後して他の隊でも計7名が遭難事故で命を落とし、合計12名の死者を出した(チベット側からのインド隊の3人も含む)


私も含めて、後付けで分析するのは容易だ。何とでも言える。どれが決定的な要因というわけではなく、いみじくもジョン・クラカワが『Into Thin Air』の中で一つの出来事を引き合いに出した時に書いているように、「(あのことを)したこと自体は、あの場合、特に重要な過ちというわけではないだろう。だが、結局は数々の小さな要因の一つになった ― そういうものがゆっくりと自然増殖しながら刻々複合し合い、知らぬ間に危機的な大きさに成長して」いったのだと思う(「 」部分は『空へ』より原文を抜粋。(あのことを)は私の挿入)


事故後にマスコミや専門家、さらには一般人までが様々な分析や憶測をもとに、主催者やガイド、シェルパ、参加客などの当事者たちを追求し、時には責めたてた。そのような追い打ちに、当事者たちは心に大きな傷を負ったことだろう


悲劇であったことは間違いない。この遭難事故後、商業登山ビジネスはどうなったか? その実状は、以下のニュースが物語っている。映像のごとく山頂へと続く稜線は、事故が発生した当時とは比較にならないほどさらに身動きできない混雑で、残念ながら死亡事故も多発している。教訓が生かされていないのが残念だ

最後に明るい話題で本ブログを締めくくりたい。8,000m峰14座に挑んでいる日本人女性がいる。渡邊直子さんという現役の看護師の女性。2022年末時点の登頂は13座。とりわけ2022年には一気に6峰を手にしている。残すはシシャパンマ、標高8,027m。シシャパンマは、14峰の中では最も標高が低く、難易度的にもチョ・オユーに次ぎ登りやすい山と言われている。14座完登は間近と期待され、達成すれば女性として世界初の14サミッターとなる可能性が高い


ちなみに日本人としては、登山家の竹内洋岳(ひろたか)氏が2012年に達成しているのみ。超人ラインホルト・メスナー以来、29人目の14サミッターで、シェルパに頼らず、無酸素で登山するアルパインスタイルを貫いた

渡邊直子の「本当の世界女性初※となる8000m峰14座制覇」を後押しする応援プロジェクト

(※ 過去の登頂記録の精査で、本当に14座に登頂できていたのは、もっと少ないとも言われ論争が続いている)

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