今年の長梅雨を活用して、「雨読」を楽しんだ。コロナ騒ぎもあり、どこにも出かける気がしないので、本棚から以前読んだ本を引っ張りだしては読み耽っていた。その中に、北方謙三の『史記 ー 武帝紀』(ハルキ文庫、全7巻)があり、今回も読みだしたらあっという間に引き込まれ、続いて司馬遷(しばせん)の『史記』へと読み進んだ
北方謙三の『史記 ー 武帝紀』について
『史記 ー 武帝紀』は『史記』そのものを題材にしている訳ではなく、副題にある通り、武帝を中心とした話だ。武帝は「項羽と劉邦」の戦いで有名な劉邦が打ち立てた前漢の第7代皇帝で、『史記』を書いた司馬遷は武帝と同時代の人である。武帝や司馬遷をはじめ、実在した多くの個性的な人物が登場するが、そのすべてが『史記』などの記録をベースにして、北方流に見事に生き生きと描かれている
漢と匈奴との戦い
北方謙三の『史記ー武帝紀』では、漢と匈奴の戦いがストーリーの太い柱のように描かれている。万里の長城を越えてたびたび進入し略奪を繰り返す匈奴を討つべく、武帝は何度も征討軍を送る。機動力に勝る騎馬隊の匈奴に対し、中華の伝統的な戦い方である兵車と歩兵で構成された漢軍は防戦一方だったが、衛青(えいせい)やその甥の霍去病(かくきょへい)という稀代の将軍が現れて騎馬隊を組織し、匈奴の大地奥深くまで攻め入り連戦連勝する。匈奴は北の大地奥深くに追いやられ、雌伏の時を過ごしながら、再起に向けて軍の強化を図る
漢ではやがて衛青も霍去病も亡くなり、騎馬隊が弱小化し元の伝統的な軍の形に戻っていく。再び侵入し始めた匈奴に対し、大規模な征討軍を派遣するものの、強化により復活した匈奴軍に歯が立たない。そんな中、征伐軍の武将の一人である李陵(りりょう)が率いる5000人の歩兵隊が、敵地で匈奴軍に遭遇する。圧倒的に不利な状況のなかで敵地深くまで進み、自軍の兵数の倍以上の犠牲者を匈奴に与えて善戦するも、やがてほぼ全滅し李陵自身も囚われてしまう
司馬遷の不運と不屈の意思
衛青や霍去病の頃のような鮮やかな勝ち方を求める武帝は、一向に上がらない戦果がどうにも我慢ならない。戦いの賞罰を議論させた際に、宮廷は武帝の機嫌を損なわないように李陵を批判する者ばかり。この末席にいた司馬遷は客観的に戦果を評価し、ただ一人李陵を擁護する。彼の実直な物言いが武帝の怒りを買い、司馬遷は宮刑(腐刑ともいう。去勢される刑罰。死刑に次ぐ重い刑)に処せられてしまう。宮刑を受けた生き恥に耐えながら、司馬遷は父親の司馬談(しばたん)から引き継いだ古からの中華の歴史の編纂に取り組み、やがて『史記』という歴史的な偉業を成し遂げる
司馬遷の『史記』について
『史記』は約2100年前の紀元前100年頃に竹簡に書かれた歴史書である。伝説の皇帝の時代から始まり、司馬遷の生きた武帝の時代までの2000年以上にわたる歴史を記述している。最初の「三皇本紀」や最後の「孝武本紀」は後世の加筆といわれるが、親子二代にわたって収集した過去の記録を司馬遷が丹念に追って記述したと言われる
なお、『史記』というのは後世の呼び方で、司馬遷が名付けたのは『太史公書』である(太史公というのは、世襲の記録係のことで、皇帝の決裁事項や天変地異、戦争など、すべての重要出来事を記録に残す史官のこと)。『史記』は皇帝から命じられ、太史公の業務として編纂に取り組んだものではなく、司馬遷と司馬談の親子二代による太史公としての矜持に基づく個人的なライフワークである
一般的な歴史書が「編年体」(へんねんたい)という形式で時系列に歴史を追うように編纂されているのに対し、『史記』は後述するように「紀伝体」(きでんたい)という司馬遷が考え出した形式で編纂されている。以降、歴史書は「編年体」か「紀伝体」のいずれかで編纂されることになる
『史記』の記述は極めて簡潔である。私見を挟まず中立的な立場で史実を記述しようとする司馬遷の意思が貫かれており、所どころ個々の歴史の最後に「太史公曰」(太史公いわく)の書き出しで始まる「太史公評」として司馬遷の個人的見解が付け加えられている。この簡潔な『史記』の記述などから、歴史小説を紡ぎだす司馬遼太郎、北方謙三、宮城谷昌光などの作家の想像力、筆の力は凄いというほかない
現在市販されている『史記』の訳本(文庫本)
北方謙三の『史記 ー 武帝紀』を読むと、司馬遷の『史記』そのものを読みたくなる。前回読み終えた時に、『史記』(徳間文庫。全8巻。 市川 宏、杉本 達夫、他訳編)をすかさず購入して読んだのだが、今回も同じ流れでこの『史記』を手にした。ただ、この徳間文庫の『史記』は司馬遷の『史記』そのものを日本語訳したものではなく、『史記』から主だったところを抜粋して、後述するように「編年体」風に再構築した上で日本語化したものだ(現在はKindle版のみ。徳間文庫カレッジから同じ文庫本が出ている)
今回は、この徳間文庫の『史記』を読んだ後に、さらに司馬遷のオリジナルの『史記』の日本語訳を読みたくなり、現在市販されているもう一つの『史記』(ちくま学芸文庫。全8巻。小竹文夫・小竹武夫 訳)を購入して読んでいるところだ。厳密に言うと、ちくま学芸文庫の『史記』も完訳というわけではなく、一部省略されているところがあるのだが、ほぼ原書を網羅しているといってよい
ちくま学芸文庫がほぼ全訳なのに、主だったところを抜粋した徳間文庫と同じ全8巻というボリュームになっているのは、ちくま学芸文庫版が日本語訳のみであるのに対し、徳間文庫版が日本語訳の後に原文とその読み下し文を併記していること、第8巻を小事典として『史記』に出てくる故事や格言、人物、家系などを紹介していることによる
二つの訳本の違い
司馬遷が編纂した『史記』の特徴を簡単に紹介すべく徳間文庫版とちくま学芸文庫版の根本的な違いについて触れたい。歴史書の編纂の仕方にかかわる違いだ
紀伝体について
司馬遷の『史記』は「紀伝体」と呼ばれる形式で編纂されており、以下のごとく「本紀」「書・表」「世家」「列伝」により構成される。ちくま学芸文庫の『史記』は、この「紀伝体」の構成のままに、日本語に訳したものである
本紀(ほんぎ):12巻(篇)
中華全体を統治した王朝や、それに類する支配体制についての系譜。12の「本紀」で構成される。伝説的な三皇や五帝の「本紀」に始まり、夏王朝、殷王朝、周王朝の「本紀」へと時代順に続く。各「本紀」では、それぞれの王朝の王や皇帝の系譜、主な出来事などを記している
かつては夏王朝や殷王朝は伝説の王朝といわれたが、近年の発掘で実在したことが確認された。発掘調査で見つかった亀甲や獣骨に、司馬遷の『史記』に書かれている人物や出来事が甲骨文字で彫られていたのである
「本紀」の構成については、分かりづらい部分、議論を呼ぶ部分もある。例えば、「殷本紀」や「周本紀」のように王朝ごとに「本紀」をまとめているのに対し、周王朝の後に中華を統一した秦を「秦本紀」とする一方で、統一した始皇帝を独立させ「秦始皇本紀」とし、二つの「本紀」としている点である
また司馬遷が生きた前漢時代については、「漢本紀」で良さそうに思うが、「高祖本紀」(高祖とは劉邦のこと)、「呂后本紀」(呂后は劉邦の正妻。劉邦の死後、呂一族が漢を牛耳った)を作り、その後も「孝文本紀」「孝景本紀」、最後に「孝武本紀」とし、主だった皇帝を独立させて「本紀」としている点は違和感を覚える(ただし全ての皇帝ではない)。自分が仕えている漢王朝については、より詳しく記述する必要があったのかもしれない
先述したように、「孝武本紀」は司馬遷の生きた武帝の治世の「本紀」であるが、後世の加筆であると言われている。司馬遷は『史記』の最後に「太史公自序」(たいしこうじじょ)として、あとがきを記しているが、そこには武帝の時代を書いた「今上本紀」という記述が出てくる。しかしながら、「今上本紀」は現在まで見つかっておらず実在しない。北方謙三が『史記 ー 武帝紀』で描いたように、武帝本人が自分の治世を記した「今上本紀」を気に入らず、破棄させたのかもしれない
さらに、劉邦と戦って敗れた項羽をあえて「項羽本紀」として「本紀」扱いにしていることについては、古来多くの議論を呼んだところである。司馬遷の史観、太史公としての意思のようなものであろう。この「項羽本紀」を劉邦の子孫である武帝が削除させなかった点は興味深い
書・表(しょ・ひょう):20巻(篇)
礼書、楽書、律書、暦書など8つの「書」と、王朝や諸国、諸侯などの系図や年表などの12の「表」からなる。「書」は祭祀のしきたり、音楽、法律、天文学、制度、などの文化に関するものである。一方で「表」は、『史記』が王朝や中華のあちらこちらの諸国の歴史を「紀伝体」で個々に記述しているため、それぞれのつながりや関係性が分かりずらく、この欠点を補うための資料ともいえる
例えば、斉の国の「世家」では「桓公12年に・・」というように歴史の出来事を綴っていく。斉の桓公12年が、他の国のいつにあたるかが分からず、横のつながりが見えない。したがって、王朝や諸侯の系図と年表を作成し資料としている。司馬遷自身も「表」がないと、2000年以上におよぶ歴史を整理できなかったのではないかと思う
世家(せいか):30巻(篇)
各王朝に存在した諸侯の歴史である。30の「世家」で構成されている。斉、魏、韓、楚、呉など、数百年にわたって長く続いた諸国(諸侯)の歴史が多い。その一方で、前漢成立に大きく貢献した蕭何(しょうか)や曹参(そうしん)、張良(ちょうりょう)、陳平(ちんぺい)などの功臣が「世家」として扱われている。個人的にはバランスを欠くものと思われるが、漢王朝に対する配慮ということだろうか
一方で、魯の国の大臣であった孔子も「世家」として扱われている。諸侯のなかでも歴史も格もある魯の国が「魯周公世家」として扱われているのと同等の扱いということになる。本来であれば、老子、韓非子、孟子などと同じように、「列伝」の扱いが相応かと思うが、前漢の武帝の時代に、儒教を国教とした点も配慮されているかと思われる。また、孔子が編纂した歴史書の『春秋』や弟子の多さ、その影響力の大きさなども考慮されたものと思われる
列伝(れつでん):70巻(篇)
時代に名を遺した人々の伝記である。69の「列伝」と「太史公自序」で構成される。「列伝」は、諸国の公子や将軍、大臣から思想家、大商人、さらには一介の市井人、食客など、一世を風靡した幅広い人物が取り上げられている(一つの「列伝」に複数人をまとめているケースもある)。「列伝」という言葉は、現在でもXX列伝というように日本でもそのまま使われている
一方で、「列伝」のなかには刺客や遊侠人なども含まれており、史書には相応しくないという批判が古よりあるのも事実であるが、この「列伝」にこそ司馬遷の歴史観や人物評の価値観のようなものが読み取れ、これらのさまざまな「列伝」が『史記』を一層色彩豊かに面白くしていると言える
「列伝」の最後には「太史公自序」という後書きのようなものがある。言わば、「司馬遷列伝」といってもよく、司馬一族の成り立ちから、なぜこの仕事に取り組んだのかという目的やいきさつ、司馬遷の史観などを書いている。これを入れて70巻(篇)となる。
編年体について
「編年体」というのは、時代順に歴史を記述する形式である。中華の歴史の大きな流れや、その時々の各国の関連性が分かりやすい。学校で使用する歴史の教科書も、基本的に「編年体」方式で構成されており、一般にはこちらの方が馴染みやすいと思う
一方で、一つの王朝や国に焦点をあてて、その特定の王朝や国の興亡、とりわけどのような成り立ちで、どのような歴史をたどり、そして現在に至るか(あるいは滅んでいったか)というような栄枯盛衰を追うことが難しい
徳間文庫の『史記』は、「紀伝体」で書かれた司馬遷の『史記』を一旦解体し、「編年体」風に再構築したものである。例えば、紀元前260年ごろに秦(しん)と趙(ちょう)の国が戦った「長平(ちょうへい)の戦い」という戦さがある。「秦本紀」でも「趙世家」でもそれぞれの国の観点で描かれているし、韓や魏や楚など周辺諸国も多かれ少なかれ巻き込まれ、それぞれの「世家」にも記述されている
さらに、活躍した秦の白起(はくき)将軍や趙の廉頗(れんぱ)将軍、春申君(しゅんしんくん)、趙の助太刀に向かった魏の信陵君(しんりょうくん)をはじめ、秦の宰相の范雎(はんしょ)や趙の重臣の藺相如(りんしょうじょ)など、それぞれの「列伝」にも描かれている。つまり、秦の白起将軍が趙を叩きのめし、40万の兵を生き埋めにしたと言われる有名な「長平の戦い」に関する記述が、紀伝体の『史記』では「本紀」「世家」「列伝」のあちらこちらに分散しているわけである
徳間文庫の『史記』は、これらの歴史的事象に関する分散した記述を集めてきて、「長平の戦い」などの大きな出来事を読み手に理解しやすいようにまとめ、時代を追って「編年体」風に構成し直している。後世の歴史作家は、このような作業をして中国古典の歴史小説を書き上げていくことになり、大変な労苦を強いられたのではないかと想像する
おわりに
「人間を知りたいなら『史記』を読め」と言われるほど、約2100年前に書かれた『史記』にはさまざまな歴史的事象に関与した多種多様な人物が登場する。とりわけ春秋戦国時代から前漢時代までは、飛び切り面白い歴史の連続で読む者を飽きさせない。日本が縄文、弥生の時代に、すでに国家が存在して諸国が覇権を争っていたわけである
中国の550年にわたる春秋戦国時代(BC770 – BC221)、さらにはその後の始皇帝による統一国家の誕生、項羽と劉邦による楚漢戦争の時代には、事実は小説よりも奇なりというような面白い歴史がいくつも繰り広げられる。まさに司馬遷が『史記』に描いたように、君主から宰相、将軍、諸子百家、市井人に至るまで、さまざまな人間像を見ることができる。「紀伝体」という形式で正統な中華の歴史編纂を試みつつ、一方で司馬遷は時代を生き抜いた人間そのものを描きたかったのではないかと思う
日本においても、信長、秀吉、家康の戦国時代の歴史は大変面白く、繰り返しドラマや映画、小説の題材になっているが、このような歴史が550年以上にわたり続くのである。現在の日本でも使用する言葉、四字熟語、故事、格言などの多くが、春秋戦国の時代に源を発している。ぜひとも多くの方に司馬遷の労作を手にしていただけたらと思う
いきなり『史記』に取り組むのは骨が折れるという方は、以下の本あたりから春秋戦国の歴史に入られることをお勧めする。Kindle版での入手になる。残念ながら、文庫本は現在絶版となっており、中古本しか出回っていない。復刻されることを願うばかりである
春秋戦国志(上中下三巻)。安能 務著。講談社文庫。