「フェイク」。なんだかなぁ・・・

年寄りの繰り言

ロシアによるウクライナへの「特別軍事作戦」が開始されて半年が経過。最初から変わらないのが、ロシア政府による耳を疑うような主張だ。集合住宅や病院、学校などへの攻撃、民間人の虐殺など、監視カメラの映像などの証拠があるにもかかわらず、ウクライナの自作自演だと主張して憚らない。事実と異なる似たような主張は、中国のウィグル自治区に関する発信にも見られる。自国の論理による強弁には呆れるばかりだ


虚言、曲説、詭弁、あらゆる方法で自己の正当性をまかり通そうとする。このようなレトリックは独裁体制によく見られるが、必ずしもそれに限った話ではなく、民主主義を標榜する国にも散見される。例えば、米国の前大統領。自分に都合の悪いニュースは、ことごとくフェイクだ、メディアの陰謀だと喚き散らして突っ張ねる。我が国の前首相も、100回以上も国会で虚偽の答弁を行い続けた(最後には「事実に反するものもあった」と認めはしたものの)

(今年も3月下旬から早朝ウォーキングに移行し、日の出の少し前から歩き始めている。刻々と変わっていく朝焼けの空を眺めるのが楽しみだ)

一国のリーダーにしてこのような有様であり、巷に目を向ければオレオレ詐欺やフィッシング詐欺は常態化し、被害は後を絶たない。多くは反社会的勢力が関与して、彼らの資金源になっている。最近、俄かに再脚光を浴びている宗教団体も、「教義」という名のレトリックで洗脳し、信者に多額の寄付をさせている。また、すでに風化しつつあるテロ教団も、信者を洗脳してサリン事件など歴史に残る非道なテロ行為を組織的に行った

昨今、ネット社会においては、AIなどの最新技術を用いて画像や音声が加工され、さも本当のニュースのように仕立てられたものが出回り始めている。どれが真実でどれがフェイクか一般人には容易に見分けられなくなりつつあり、フェイクも#タグを付けられて、あっという間に拡散する。随分と生きにくい世の中になったものだと感ずる

なんだかなぁ・・・、世の中、悪意に満ちているような暗い気分になる

(朝焼けを楽しむためには雲が不可欠。朝日に反射して刻々と色を変える)

特別軍事作戦に話しを戻せば、侵攻したロシアに限らず、防戦側のウクライナも情報戦を繰り広げている。今から2500年くらい昔の中国において、春秋時代から戦国時代へと時代が変わる頃、孫武が兵法を著わした。いわゆる『孫子の兵法』だ。その中に「兵は詭道なり」という有名な戦法の一つがある。本来は、相手の裏をかいて予期せぬ動きで攻めること、つまり「変幻自在」な「サプライズ」戦法を意味するが、次第にニセ情報による攪乱や不意討ちのようなものも含まれるようになった。ただ、昨今の稚拙な「詭道」をあの世から眺めて、孫武もさぞかし呆れ果てていることだろう


古今東西、戦争や紛争においては、情報操作は常套手段だったわけで、なにもプーチンに始まったことではない。余談ながら先の太平洋戦争において、日本が展開した真珠湾攻撃という奇襲作戦も、孫子の兵法でいえば「詭道」そのものだ。一方、米国政府は暗号解読で攻撃を事前に察知していたにもかかわらず、時の大統領のルーズベルトはその情報を伏せて、あえて日本に攻撃させ、”sneak attack(騙し討ち)”と非難し、米国民の戦意を一気に高めて開戦に及んだ。米国ですら自国民に対して、ある意味で情報操作をしたことになる

(朝日がしっかり昇るとショーは終わる。雲は何もなかったような表情に戻る)

ウクライナ侵攻後、ロシア国内では厳しい言論統制が敷かれ、独立系メディアをシャットアウトした。ウクライナを「ネオナチ」に仕立てて、ウクライナにいるロシア系住民が虐待されているというプロパガンダを国営放送を通じて盛んに行っている。自国民を洗脳することにより、プーチンは高い支持率を得ている


実は、ロシアのやっていることは、先の大戦において日本のやったことでもある。「大本営発表」を通じて国民に噓の戦況情報を流し、戦争を批判するメディアや言論を弾圧し、政府や軍部に不利な情報をシャットアウトした。新聞やラジオなどの大手マスコミは、こぞって戦意を焚きつけるような報道を行って戦争の片棒を担ぎ、国土が焦土になるまで国民の「熱狂」を煽った

(鏡のような水面にピンク色に染まった雲が映る)

戦後においては、日本政府は「臭い物に蓋をする」、出来るだけ「不都合な事に触れず避けて通る」ように先の大戦を扱ってきた。学校の歴史教育においても、教科書の記述は検定され、踏み込んだ記述は修正を求められ、従わなければ教科書として認定されない状況が続いている


一方で、日本軍の被害にあった韓国や中国では、逆に誇張ともいえる記述内容で歴史教育を行っており、双方の国民に横たわる先の大戦に関する認識の「温度差」のようなものを作り出している。ある意味これも双方の政府による「洗脳」のようなものだと思っている

(防波堤の向こうには、トーキョー・ディズニーランドのマイカー用のゲートがある

「臭い物に蓋をする」、出来るだけ「不都合な事に触れず避けて通る」というのは、自衛隊の位置付けや非核三原則についても言える。本来であれば、自衛の軍として明確に位置付けるべき実態でありながら、あえて曖昧なままで今日に至っている。三原則の一つ「核を持ち込ませず」も、米軍の核搭載艦の日本への寄港は公然の事実である


そういう曖昧な状態に置いたままで、ロシアによるウクライナ侵攻や中国の力による香港や台湾併合の動き、北朝鮮の核開発など、周辺の物騒な状況を梃子にして、防衛費の倍増による軍備の拡張に踏み出そうとしている。敵基地攻撃能力の保有や核シェアリングなど、国民の理解とコンセンサスに向けた十分な議論がないまま実行に移すとなれば、先の大戦での危うさに似たものを感じる

(光彩のファンタジーには適量の雲が不可欠。少なすぎても厚すぎてもダメだ)

個人的には、適切な自衛能力の保有は必要不可欠であり、自衛隊をしっかりと憲法上にも明記すべきという立場だが、先の大戦を振り返り、過去の過ちを繰り返さないよう、政治家任せにするのではなく、国民一人ひとりがしっかりと議論に参加して、政府の独断専行をさせないことが現世代の役割だと思う


だが、残念なことに現世代は先の大戦について十分な歴史教育を受けていないし、日本の民主主義はまだまだ成熟しておらず、民意が政治に正しく反映されるか心もとない。太平洋戦争を知る世代は減り続け、語り部もいなくなりつつある。現世代にできることは、書物などを通じて、今一度、先の大戦からしっかりと学ぶことだと思う

(雲がない日はこんな感じ。水平線がシンプルに色を変えていく。ちょっと物足りなさを感じてしまう。贅沢な話しなのだが・・)

世の中に、先の大戦を描いた小説や映画やドラマなどは多いが、ともするとアジアにおいて加害者であるはずの日本を横に置いて、神風特攻隊のような軍人も含め、戦争に巻き込まれた被害者としての国民を描いた悲劇的なものが少なくない


比較的に史実に基づいて書かれる歴史小説においても、司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の坂本竜馬や『峠』の河井継之助、『坂の上の雲』の乃木希典に見られるように、その人物に対する作家の思い入れや好悪が、作中での毀誉褒貶にバイアスとなって表れがちなので、学びの材料にするのはあまり適切ではない

(昨年に比較して今年は天候不順な日が多く、曇り空が多かった。ディズニー・シーの建物群の背後には、雲間に浮かぶスカイツリー。色彩のファンタジーはないけれど、これはこれで幻想的)

先の大戦を分析した名著『失敗の本質』は、示唆に富み大変参考になるものの、軍事面に特化している。比較的ニュートラルに先の大戦を多面的にまとめたものとして、昭和史の語り部ともいうべきジャーナリストであり作家である半藤一利の『昭和史 1926-1945』(平凡社ライブラリー)がある

著者はすでに鬼籍に入っているが、当時の「流れ」を丹念に調べた歴史書として日本人に読み継がれていくべき作品だと思う。政府の検閲に合格した教科書では到底知り得ないような史実や考察が記されている

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