日本史最大のミステリーの一つ、邪馬台国の所在地を解き明かすべく、魏志倭人伝の記述をもとにヨットとバイクで現地を訪ねて考察した本
田中 洋著、梓書院発行、令和7年9月1日初版発行。1980円(税込)
本書の概要
副題にある通り、学生時代からヨットに親しんできた著者が、自ら『魏志倭人伝』(ぎしわじんでん)の記述をたどり韓国の釜山(ぷさん)港から自分のヨットを操り、対馬(つしま)、壱岐(いき)をたどって北九州の上陸先を突き止める。さらにバイクで倭人伝の記述を頼りに陸路を走り、邪馬台国の所在地を解き明かそうと挑んだ意欲作。金融マンとしての現役時代から現地に通い、退職後に本格的に実地検分して本書をまとめ上げたライフワークともいえる著者渾身の作品だ
長きにわたり邪馬台国の所在地としては、概ね九州説と畿内説で論争が分かれてきた。女王卑弥呼(ひみこ)については、第7代孝霊天皇の皇女で倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)とする説や九州の豪族の巫女とする説、時代考証的には無理がある天照大神や神功皇后などとする説も含めて様々な推察があり、埋葬地についても畿内説では奈良県桜井市の箸墓(はしはか)古墳など、九州説では福岡県糸島市の平原遺跡や佐賀県の吉野ヶ里遺跡などが取り沙汰されており決着を見ていない
卑弥呼の正体についてはさておき、著者は「はじめに」で書いているように、『遺跡や出土品に依拠する「考古学的」なアプローチ』でもなく、『「文献史学」からの考察』でもなく、『倭人伝における方位、距離、地勢』に焦点を当て、著者が持つ『九州北部の海と陸の土地勘』をもとに『ヨットとバイクの長い経験』を土台にして所在地を解明していくというアプローチを取っている。あくまで『魏志倭人伝』の移動記録を重視して邪馬台国の場所を特定するというスタンスだ(『 』内は原文引用)
とりわけ著者が自ら何度もヨットを走らせて、倭人伝の航行データや船から見える景色の記述、ヨットマンとしての経験から停泊に適した港などの考察をもとに海路を特定していくプロセスは読者に説得力を持って迫るものがある
本書の構成
2部構成になっており、第1部は海路のパートで第1章から第6章、第2部が九州北部に上陸後の陸路のパートと全体に関する考察で第7章から第12章となっている。加えて第1部には最初に序章が、第2部には最後にエピローグがある。海路、陸路ともに倭人伝の記録をもとに以下のごとく個々に章立てして検証している
第一部:海上コースの考察
第1章 / 韓国の釜山から對海国(対馬)までの海路特定(原文:「始度一海千餘里至對海国」)
第2章 / 對海国(対馬)内の移動に関する著者独自の考察部分(原文:記述なし)
第3章 / 對海国(対馬)から一大国(壱岐)までの海路特定(原文:「又南渡一海千餘里名日瀚海至一大國」)
第4章 / 一大国(壱岐)から末盧国(古今津湾)までの海路特定(原文:「又渡一海千餘里至末盧國」)
第5章 / 通説の唐津上陸に対する反論
第6章 / 上陸地に関する著者の対案提示
第二部:陸上コースと全体像の考察
第7章 / 末盧国(古今津湾)から伊都国、奴国を経て不弥国までの陸路特定(原文:「東南陸行五百里到伊都國 東南至奴國百里 東行至不彌國百里」)
第8章 / 投馬国に至る行程の記述の考察(原文:「南至投馬國水行二十日」)
第9章 / 不弥国から邪馬台国までの距離に関する考察(原文:記述なし)
第10章 / 邪馬台国に至る行程の記述の考察(原文:「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」)
第11章 / 著者が想定する邪馬台国の候補地に関する考察
第12章 / 邪馬台国の北の21か国をはじめ隣接国に関する考察(原文:「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國 次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國 次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國 次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國 此女王境界所盡」)
※『魏志倭人伝』の原文には読点も句点も改行もないが、分かりやすくするため原文引用に際してスペース、改行等を入れた
邪馬台国の所在地についての“一投石”
邪馬台国の所在地の特定の難しさ
邪馬台国の存在そのものが確たるものとして考えられること、その一方でその所在地が今もなお謎めいているのは、とにもかくにも『魏志倭人伝』の記述によるところが大きい。中国では日本よりはるかに国家の誕生が早く、しかも歴史が文書で残っている。例えば、約2100年前の紀元前100年頃に竹簡に書かれた歴史書である司馬遷(しばせん)の『史記』一つをとっても驚嘆するような記録である
余談になるが、『史記』は伝説的な「三皇本紀」の時代から始まり、約550年にわたる有名な「春秋戦国時代」をカバーし、秦による中華統一とその後の項羽(こうう)と劉邦(りゅうほう)による覇権争いを経た「前漢」の成立を記録し、司馬遷が生きた同時代の前漢第7代皇帝の武帝期までを書きとどめている
『史記』には日本(倭人)に関する記述はないものの、曹操(そうそう)・孫権(そんけん)・劉備(りゅうび)が争った魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)の時代、まさに諸葛孔明(しょかつこうめい)などの軍師が活躍し赤壁(せきへき)の戦いなどを繰り広げた時代を描いた歴史書『三国志』の中の『魏書』第30巻『魏志倭人伝』や、その後に編纂された『後漢書』には日本からの朝見の記録が残されている
『魏志倭人伝』を含む『三国志』は、三国時代に続く西晋(せいしん)の時代に陳寿(ちんじゅ)によって編纂され、『後漢書』はその1世紀半ほど後に南朝宋の范曄(はんよう)によって編纂された。『後漢書』に記載された日本からの朝見に関しては、江戸時代に博多湾志賀島で発見された有名な「漢委奴国王」の金印が当時の光武帝によって授けられたことが記述されている
横道に逸れたが、『魏志倭人伝』に記述された魏の使者一行が邪馬台国を目指した記録には、日本に至る海路やその後に陸路で通過した国々について記されているものの、肝心の邪馬台国の所在地や卑弥呼の記述がない。不弥国までの記録は方位や距離の記録があるのだが、なぜか不弥国から最後の邪馬台国までの行程に関する距離や方位は記されていない
この邪馬台国への行程の記述の欠如が、邪馬台国の所在地の謎を深めている
九州北部に至る海路の特定
先に述べたように、朝鮮半島南端にある釜山港から対馬、壱岐を通って九州北部に到達する海路の特定については、ヨットマンとしての著者の経歴が如何なく発揮されている。対馬海流の潮の流れを考慮して「くの字」航法や「横流れドリフト」航法を用いながら対馬、壱岐、九州へ渡ったとする分析は、まさに長年にわたりヨットで帆走してきた著者の真骨頂というべき部分だ
釜山から対馬、壱岐、北九州の末盧国の港まで、倭人伝では各航海の距離を「一海千餘里」と記している。魏が用いていた一里について、著者は魏の天文学術書『周髀算経』を解明した専門家の数字77mを引用して検証している。その結果、各航海の自らの航海ログの距離80㎞弱と「千餘里」がほぼ一致することを示し、倭人伝の距離に関して一里77mを用いることの妥当性を示した
九州上陸地点については、通説では唐津とされているものの、倭人伝に記述されている到着地の末盧国の集落の様子が「濱山海居」(山が海に迫った狭い浜に並んでいる)という光景や、「草木茂盛 行不見前人」(草木が生い茂り、進む際に前の人が見えない)という葦原のような光景などから考察し、唐津ではなく博多寄りの古今津湾ではないかと推察している
さらにヨットの経験から、九州上陸時に長く停泊することになる港については、波が少ない入り江が舟へのダメージが少ないことから、古今津湾の周船寺港ではないかと特定している
不弥国に至る陸路の特定
水先案内人による船旅は対馬、壱岐という島を経由することで快適だったのではないかと推測される。一方、上陸後の徒歩による旅については、魏王から途中にある国々や邪馬台国などへの多くの下賜品を運搬しながら進むため難行だったことが想像される
上陸後の陸行については「東南陸行五百里到伊都國 東南至奴國百里 東行至不彌國百里」と記されており、著者が上陸地を特定する際にも重要な記述内容になっている。というのも、通説の唐津上陸とした場合、その後の陸行はこの記載の方位と合致せず、概ね北東や東や北の方位に進むことになり東南の方位に進まない
著者は上陸地を古今津湾の周船寺港と特定し、そこから倭人伝に記述された方位に向かって自らバイクを駆って走り、山越えや峠越え、川の渡渉など一行が難儀しそうなルートを自分の目で確かめ、それらを回避して辿ったと思われる陸路を特定していく。机上の空論ではなく、実際に「現場」に赴いて「現物」を観察し、「現実」を認識した上で問題解決を図る「三現主義」のアプローチを取っている
これにより、倭人伝に記載されている方位と距離から伊都国、奴国、不弥国の各所在地の特定に至っている。
不弥国に続く記述に関する著者の解釈
不弥国に続く記述は、投馬国に至る記述「南至投馬國水行二十日」になり、その記述様式については出発地の釜山港から用いてきた方位と距離の記述様式、例えば「東行至不彌國百里」という様式から突如として「水行二十日」という日数の記載に変わる。同様に、それに続く邪馬台国に至る行程の記述「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」も日数の記載になり、不弥国までの記述との違和感が否めない
先述したように『魏志倭人伝』の記述は読点や句点がなく、段落替えの改行などもない。そのため不弥国へ至る記述に続く投馬国に関する所要日数の記述が不弥国からの続きなのか、全く別の観点からの記述なのか判然としない。同様に、それに続く邪馬台国に至る日数の記述も不弥国あるいは投馬国からの続きなのか、あるいは全く別の記述なのかもよく分からない
仮に投馬国や邪馬台国への行程が不弥国からの続きの行程であるとすると、南へ水行二十日、さらに南へ水行十日となり、日数的に不弥国からは川の移動ではなく海の移動ということになり、九州を外れて南の太平洋へと漕ぎ出すことになってしまう
その後の陸行一月に至っては海の中を歩くことになってしまう。このことから邪馬台国の所在地に関する論争の中には、「南への水行」は記録者または編者の勘違いで「東への水行」が正しいとし、九州から瀬戸内海をたどって近畿地方へ移動したとする説も多い
南か東かいずれにせよ不弥国から水行が再開されたとするならば、不弥国は海岸に面した国ということになり、釜山から舟で渡海してきた一行が、陸行を重ねた後に再び不弥国から渡海に移るということになり、最初から船で移動し続ければよいではないかという素朴な疑問が残る
この点に関して、著者は投馬国や邪馬台国への所要日数の記述は不弥国からの続きの行程について記述したものではなく、出発点の釜山からの海路と陸路の所要日数を記述したものではないかと推察している
釜山から不弥国までは方位と距離を記しており、所要日数については記していない。それ故、著者は海路とそれに続く陸路の移動距離を経て邪馬台国まで旅するのに要した日数を示したのではないかと考察している。引っ掛かる点も無きにしもあらずだが、個人的には著者の解釈の方が自然で妥当なように思われるがいかがだろうか・・
邪馬台国はいずこに?
先に述べたように倭人伝の方位と距離の記述は不弥国で終わり、そこから邪馬台国へ至る行程については記述されていない。私の個人的な推測ではあるが、①不弥国から先は邪馬台国までたどり着けなかった、②邪馬台国の使者が不弥国へ出向いて一行と謁見した、③邪馬台国に到達するも倭人伝はあえて行程を記さなかった、などが考えられる
①は邪馬台国が山深い奥にあり容易に先へは進めなかったことが考えられる。②は女王卑弥呼は占いなどにより神のお告げを受け取る巫女であり、ただ一人の世話人を除いて人との一切の接触を避けていたといわれる。そのため、一行を邪馬台国に入れないようにNo2の弟などに手前の不弥国で応接させたケース。③一行の記録係あるいは『三国志』の著者である陳寿の「遊び心」のような趣向であえて記述しなかったことによるもの。
本当のところは分からないが、著者は③のような理由ではないかと推測している。邪馬台国までの所要日数の記述「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月」を釜山港から邪馬台国までの所要日数と解釈する立場を取っている
通過する途中の国での儀礼による滞在や休憩などを想定して「陸行一月」の実移動距離を考察している。そこから倭人伝に記載された上陸後の不弥国までの陸路距離を差し引き、不弥国から邪馬台国までの残りの距離を割り出し、邪馬台国の所在地を特定している
所在地は読んでのお楽しみということで、ネタバレのような無粋な真似は自重して、皆さんにはぜひ手に取って読んでいただき、著者による邪馬台国の所在地に関する新たな“一投石”を楽しんでもらえればと思う
最後に
新たなアプローチによる著者の邪馬台国の所在地の解明はとても新鮮で面白い。倭人伝の記述に基づき、自らの足で調べて突き詰めていくスタイルは、松本清張などが現場取材に力を入れたスタイルに通ずるものがあり、説得力に溢れている
遺跡や出土品をもとに所在地を考察するアプローチではなく、あくまで『魏志倭人伝』の記述を尊重して所在地を究明し、その地で発見された出土品などを補完材料とするアプローチは素直に受け入れ易い
著者は『魏志倭人伝』の原文を読むことを強く推奨している。しかしながら、私のように漢文に明るくない人も少なくないであろうから以下のサイトを最後に紹介しておきたい
魏志倭人伝の原文に関する参考サイト
以下のサイトは青空文庫で読める原文のサイト。本文に書いたように、原文は読点も句点もなく約2000字の漢字が延々と続く。読みやすくするために、青空文庫においても句読点が挿入されている
魏志倭人伝の読み下し文と現代語訳のサイト
似たようなサイトがいくつかある中から以下のサイトを紹介。原文の下に読み下し文、その下に現代語訳が併記されている
魏志倭人伝の通説に基づく行程をたどるサイト
一般的な学説をもとに魏国の使者たちが辿ったと思われる行程を記したサイト。今回紹介した本で著者がヨットとバイクで解き明かした邪馬台国へのルートが、一般的な学説とどう違うのかが対比でき、著者の新たな“一投石”がよく分かると思う

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