『日本の歪み』養老孟司x茂木健一郎x東浩紀 を読んで思うこと

レビュー

少し前からちょっと気になっていた本があった。それを最近やっと読むことができた。

『日本の歪み』、養老孟司x茂木健一郎x東浩紀、講談社現代新書

ちなみに「日本の歪み」は「にほんのひずみ」と読む。「ゆがみ」ではない。専門分野の異なる三人による鼎談だ。

帯に『この社会の居心地の悪さはどこからきたのか?』とあるように、論客の三人が日頃それぞれに感じている日本社会の「居心地」の悪さとその原因について語り合っている。

著者三人の概要

養老孟司(ようろうたけし):1937年生。解剖学者。東京大学医学部卒業、東大院医学専攻課程修了。医学博士。東大医学部教授を経て退官後に北里大学教授などを歴任。昆虫好きとしても知られる。著書「バカの壁」を始めとする壁シリーズが有名な白髪の老紳士

茂木健一郎(もぎけんいちろう):1962年生。脳科学者。東京大学理学部、法学部卒業。東大院物理学専攻課程修了。理学博士。理化学研究所、ケンブリッジ大学を経てソニーコンピューターサイエンス研究所シニアリサーチャー。東大院特任教授など兼任。モジャモジャ頭がトレードマーク

東浩紀(あずまひろき):1971年生。批評家・哲学者。東京大学教養学部卒業。東大院総合文化研究科博士課程修了。博士(学術)。株式会社ゲンロン創業者および取締役。「訂正する力」など著書多数

三人とも東京や神奈川など首都圏出身。世代的には、養老孟司が「かろうじて戦中派」(終戦時は8歳)、茂木健一郎と東浩紀は年の離れた兄弟のような年齢差で、養老孟司とは親子ほど年が離れており、戦後派の安保闘争世代などともズレがある。単純に「戦後派」と呼ぶには違和感があり、あえて名付けるなら茂木健一郎は「高度経済成長前後派」、東浩紀は「バブル前後派」とでもいう世代だろうか。

討論の印象

見識の広さから、居心地の悪さは明治維新から最近の出来事まで時代をまたぎ、対象も先の大戦から憲法、天皇制、民主主義、天変地異、アニメ、ウクライナなど多岐にわたる。個々について述べるつもりはないが、世代の違い、特に「かろうじて戦中派」と「高度経済成長前後派」、「バブル前後派」の違いによる時代や世相に対する肌感覚の違いのようなものがあちらこちらに滲み出ていて面白い。

対談の時間的制約や紙面の制約などから、そのような違いを掘り下げていくことはあまりなく、ややもすると表層的に推移していく印象は否めない。特に茂木健一郎に「大人的」な対応が感じられ、編集者から進行役のようなものを依頼されていたのか、認識の共通点を抽出して議論をうまくまとめ、話題を多岐に進めようとするところが見られなくもない。唯一、東浩紀が時々異論を挟むのだが議論が深くへとは進まない点はちょっと物足りなさを感じた部分である。

一方で、明治維新により数百年続いた武家社会がひっくり返り、西洋化へと一気に進んだ時代の流れの中で、社会に生まれた大きな軋轢や心の葛藤などが近代日本社会の「歪み」を生み出したこと、それが西郷隆盛の西南の役というような形で噴出したというストーリーは同感である。

同様に先の大戦で軍国主義から民主主義へと国家のありようや価値観が一夜にしてひっくり返ったドラスティックなチェンジが、今に至るいろいろな「歪み」の源泉になっていることなども、なるほどと思わされる点が多くあった。

先の大戦については、大東亜戦争、太平洋戦争、第二次世界大戦など、呼び方が様々あることや、起点についても満州事変なのか盧溝橋事件なのか真珠湾攻撃なのか曖昧なままになっている。日本社会は原爆以外は戦争を過去のものとして触れたがらないし、人災であるはずの戦争すら「しょうがない」、「やむなし」というような天災と同じ「あきらめ」のような受け止め方をしているという点も共感を覚える。

それぞれの専門分野を土台にした突っ込みや論理展開もそれなりに面白く、近代化が進む明治にあって夏目漱石が当時感じたであろう「居心地」の悪さについての考察も興味深い。180度ひっくり返るような社会の変化の中で、肝心なところは曖昧にしたまま、釈然としない「しこり」、「ひっかかり」のようなものを引きずりながら、新しい価値観や文化、制度などを受け入れて流されていく(自ら流れていく)日本人の国民性が、「居心地」の悪さを醸成しているという捉え方は腑に落ちるところがある。

ぜひお手に取って一読されることをお勧めする。

読み終えて思うこと

変えられない日本

憲法など法解釈を曖昧なままにする一方で、てにをは的な法律は次々と作ってがんじがらめにし、機動性を著しく失わせている実態はコロナ禍で多く露呈した。日本の人口構成も取り巻く世界情勢も大きく変わりつつあるのに、戦後や高度経済成長期の社会を前提として作られた法律が、見直されることはあまりない。

法治国家といえば聞こえはいいが、すでに時代に合わなくなっている法律がそのまま機能して、今や大きな制約になり変革の足を引っ張り日本の活力を削いでいる。コロナ禍での医療体制や国と地方の管轄体制などの課題については、コロナ後に速やかに見直すと歴代の首相が述べたにもかかわらず、次のパンデミックでまた同じ轍を踏みそうだ。倒壊や犯罪などのリスクがある空き家問題や長く放置された車の撤去などを例に挙げても、古い法律があるゆえに強制撤去などの有効な手を迅速に打てないでいる。

大から小まで、立法も行政も司法もダイナミズムを失い本来あるべき機能を果たしていないと思わざるを得ない。長く議論が続く憲法九条についても、非核三原則についても、1票の格差についても、実態との乖離は甚だしい。憲法九条に関しては、実態との乖離以前に解釈そのものが議論になり未だに決着を見ていない。発布以来77年が経過したが、一度も変えたことがない日本の憲法は、今やギネス級の記録になりつつある(すでにギネス記録か?)。

だが、問題は三権だけではない。主権を持つ国民自体が声を上げないのだ。法律と実態の乖離について、決して現状を良しと思っていないと信じたいが、「触らぬ神に・・」や「長いものには・・」的な状態は続く。一方で、曖昧なままにしておく「特技」「お家芸」で尖閣を棚上げのままにしておけばよいものを、当時の都知事が唐突にアクションを取ったばかりに今日に至る大きな軋轢を生んでしまった事例もある。とんだパンドラの箱を開けたものだが、これは横道に逸れることになるので止めておく。

話を戻せば、上も下もなかなか変えられないのが日本のキャラのようだ。キャッシュレス社会への転換から小学生のランドセルまで、色んなところで従来のやり方、あり方が踏襲される傾向が強い。決してすべからく変えることが良いと言っているのではないので誤解なきよう願いたい。日本社会には残しているから良いものや良いこともたくさんある。ただ、横並びや前例踏襲的な国民性、社会の風潮、仕組みなどが、変えられない日本を作りだしているように私には思える。

養老孟司が指摘するように、大きな天変地異が立て続けに来ないと、日本人は抜本的に変えられないのだろうか。私も居心地の悪さを感じる一人である。

民主主義は育ったのか?

民主主義については、本ブログで数回取り上げた。その中の一つに、宇野重規 著の『民主主義とは何か』 講談社現代新書がある。全体を通して「参加と責任のシステム」を基軸として民主主義を解説しており、私なりに大雑把に要約して、「個人のレベルでは一人ひとりがすべてのことに主体的に当事者意識をもって議論に参加し、投票などの行動をとること、自らが可能な範囲で公共の任務に携わり、責任を分かち持つこと、代議制政治においては為政のプロセスや結果をウォッチングし説明責任を追及すること」と紹介した。

残念ながら現状の日本でこのような民主主義が機能しているとは言い難い。世襲的に代議士を選出する風土、仕組みが多く残っており、中には代議士としての資質を疑いたくなるような人物が選出される選挙区も少なくない(これは世襲とは関係なく)。どこかで思いがけないバタフライ・エフェクトのようなものが起きない限り、日本人が上記のように主体的に民主主義にかかわることはないのだろうか?

まぁ、これはこの国に限ったことではなく、民主主義の大国といわれる国でさえ、目を疑うような大統領が選出されており、あまり目くじらを立てることではないのかもしれない。さらに、かの独裁侵略国家を支持/容認する国が、国連において半数以上を占めているのだから、民主主義の綻び、地盤沈下は甚だしい。

日本的な「消化」に期待

嘆いてばかりいても仕方ない。明治維新も先の大戦も日本に大きな変化をもたらしたのは紛れもない事実だが、激変はこれに限ったことではない。遣隋使、遣唐使の頃から中国から学び、律令制や漢字、仏教など様々なことを取り入れ、時間をかけて消化し自らのものとしてきた歴史を持つ。

維新後に欧州から、先の大戦後は米国から多くの仕組みや制度、思想などを「ベストプラクティス」として自発的に取り入れたり強制されて受け入れてきた。アジアの中ではいち早く西洋化した成功体験のようなものを持つ一方で、日本はまだ消化の途上にあるといえるのではないだろうか。

古より外から制度や仕組み、文化、科学技術などを取り入れ、その都度「居心地」の悪さを感じながらそれらを「内面化」してきたのが日本という国ではないかと思う。G20ではさほど違和感がないものの、G7での「浮きっぷり」は否めない。金魚の糞のように西洋諸国についていくのではなく、西洋を理解しつつ東洋(非西洋)の国として地に足の着いた主張、振る舞いができる日本になってもらいたい。

別のブログで書いたように、G7などの経済大国というステータスにこだわる必要などない。国全体としてのGDPの大きさにさほどの意味も魅力も感じない。他に適任国があればさっさと席を譲ればよい。国の経済規模ではなく、国民一人ひとりの生活レベルで真に豊かな国になることを目指すべきだと思っている。そのために、西洋だけでなくアジアやグローバルサウスなどからも幅広く良いものを取り入れ続け、日本流に消化し発展させていくことを願ってやまない。

産業革命以来、西側や北側が牽引してきた世界は変わりつつある。日本の立ち位置も見える景色も随分と変わってきたし、今後はさらに加速して変わるだろう。そういう意味では、維新後や大戦後の西洋文明の消化、内面化だけに注力している時代ではない。洋の東西、球の南北にかかわらず、謙虚にかつ柔軟に日本という国を変え続けていくことが「日本的」といえるのだと思う。たとえ「居心地」の悪さを常に感じながらも・・

最後に、いつもにも増して雑駁なブログとなったことをお詫びします。

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