NHK「青天を衝け」でふと思ったこと

レビュー

今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」は、渋沢栄一が官を辞めて民に下り、次々と起業する終盤のクライマックスへと突入する。明治維新の頃の主人公なので、史実がはっきりしており、脚本家が想像を挟む余地は少なく、ドラマは私が8年くらい前に読んだ本の内容と大きな齟齬もなく進行している


  「渋沢栄一」上 算盤篇・下 論語篇、鹿島茂著、文春文庫

いつもの早朝ウォーキングの一コマ。

渋沢栄一が活躍した明治維新の時代は、この国の夜明けのような時代だった

ところで、「青天を衝け」のメインテーマ音楽が流れ、監督や脚本家や役者などと一緒に流れる『音楽指揮 尾高忠明』の名前におやっと思った人も多いのではないか?私も、もしやと思いググった一人だ。やはり当たっていた。ドラマにも登場する渋沢栄一の従兄の尾高惇忠、「じゅんちゅう」こと「あつただ」の子孫(ひ孫)だ


実は、尾高惇忠の子供で、尾高忠明の祖父になる尾高次郎は、渋沢栄一の妾の子である「ふみ」と結婚しているので、指揮者の尾高忠明は惇忠のひ孫であると同時に、渋沢栄一のひ孫でもある。大阪フィルハーモニー交響楽団音楽監督であり、東京芸術大学音楽学部指揮科名誉教授でもある。二人のひい爺さんのドラマの音楽を指揮することに、ご本人はどのような思いを馳せただろうか


ちなみに尾高忠明の兄は、ひい爺さんと同じ「惇忠」という名前をもらっており、こちらも東京芸術大学音楽学部作曲科名誉教授だった。残念ながら、兄の尾高惇忠は、ドラマが始まった今年の2月に逝去している。ついでながら、忠明と惇忠の父親の「尚忠」も、作曲家・指揮者であった


渋沢栄一の従兄であり、妻(千代)の実兄でもある尾高惇忠の家系は、音楽一家かと言えばそんなことはなく、惇忠自信が富岡製糸場の初代場長や第一国立銀行の仙台支店長などを務めた実業家であり、孫には法哲学者で東京大学法学部教授だった尾高朝雄や、社会学者で東京大学文学部教授だった尾高邦雄などをはじめ、産学で活躍した子孫が多くいる華麗な家系だ

先日、海岸沿いに青サギやコサギが並んでいた。普段はあまり見かけない光景だ

さて、尾高惇忠が初代場長に就任した富岡製糸場は、日本の生糸を海外に輸出し経済を発展させるために作られた官営工場だ。最近は養蚕をほとんど見かけなくなったが、私が子供の頃(50数年前)までは、まだ身近にお蚕さんを見る機会があった


私の母方の実家でもお蚕を飼っていて、夏休みなどで泊りがけで遊びに行くと、従姉たちにお蚕の幼虫を背中や肩に乗せられるのが嫌で、いつも逃げ回っていた。10センチくらいあろうかという大きな白い幼虫は、幾段にもなった棚に敷かれた桑の葉をむしゃむしゃと齧り続け、存在感がハンパなく、なかなか蚕部屋に入れなかった。今でも摘まんだときの感触や、掌を這う感触が蘇る


母親の実家に行かなくても、当時の自宅の周りには桑畑が残っていて、桑の実を食べては口の周りを紫色にして、親に叱られていた。町内の数百メートル離れたところには、繭から生糸をとる家があり、繭を天日に干すために棚のようなケースが塀の周囲に並べられていた。繭から糸を取りやすくするため、サナギの入った繭を煮て接着材のような成分を溶かすのだが、その匂いが何とも強烈だった


この家は四つ角にあり、角を曲がった隣に駄菓子屋があった。10円をもらって駄菓子を買いに行くのだが、なぜかこの家の前のドブに10円玉をよく落とした。ポケットに入れておけばよいものを、ポケットから落ちるといけないと心配して手に握っていくのだが、落とすのは決まってこの家の前のドブ。当時はまことしやかにお蚕さまの呪いと信じていた(笑)



横道に逸れてしまった。出来上がった富岡製糸場ではフランス人の技師を恐れたのか、女工がなかなか集まらず、場長の尾高惇忠は自分の娘を第一号の女工として働かせる。また、各府県に人数を割り当てて募集し、藩主の士族令嬢などを工女として集めた。女工哀史のように多くの製糸工場で見られた過酷な労働を課すのではなく、富岡製糸場では女性の教育に力を入れ、働く傍ら学問も教えた


まさに尾高惇忠らしい工場運営ともいうべきもので、現代の企業経営者にもお手本にしてもらいたいものだ。昨今、リスキリングが日本の産業競争力向上に不可欠となっているが、労働者の賃金を抑えながら生産性を高めることばかりを考えるのではなく、スキルや知識の幅を広げ、労働者の質の向上を推進するような未来を見据えた懐の深い経営をしてほしいものだと切に願う

日が昇った。今朝はすごく寒かったけど、良い天気になりそうだ

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