人新世の「資本論」斎藤幸平著。う〜ん、マルクスかよ

レビュー

少し前に本ブログで、これから30年後に向けて、私が考える日本の目指す姿について拙論を述べた

『日本を今一度せんたくいたし申候』―私が考える日本の将来像-

ざっくりいえば、
■人口の減少に合わせて、自然と共生する住みやすい住環境をつくる
■経済大国などの国威を求めず、国民一人ひとりの豊かさを追求する
■広い意味での安全保障に注力し、安心して暮らせる社会をつくる
■民主主義を成熟させ、市場経済を基本としつつも、一定の計画経済を推進する
というような世の中だろうか


戦後復興型の経済成長を追い続け、進行する環境破壊に真摯に向き合わず、かつ個人の豊かさよりも企業を優先し国威を維持しようとする日本の政治に対する絶望感や不信感が根底にある


自分自身、長く企業で働いてきた実感として、資本主義の限界や弊害のようなものを感じてきた。企業の成長や利益追求が必ずしも日本全体の中長期の発展やより良い社会の醸成、社員も含めた国民の幸せに直結していないという違和感と言ってもいい


企業が業績を拡大することでより多くの雇用を生み出すとか、より多くの税金を国に納めるという貢献は否定しない。一方で、資本家や株主の期待に応えるべく短期志向になりがちで、収益性の向上のために不採算事業の縮小や撤退、非正規社員の活用拡大、賃上げの抑制、人材育成や基礎研究投資への消極姿勢など、中長期的な観点からどうかと思われる経営も少なくない


また、半導体のように素材・部品メーカーや装置メーカーが売上増を目指し海外企業との取引を拡大することにより輸出先の国が競争力を高める一方で、国内メーカーの優位性が衰えてシェアを落とし撤退を余儀なくされている。結果として半導体の自給サプライチェーンが脆弱になって日本の産業全体に影響が出たり、輸出先国で先端技術が軍用にも利用されて日本の安全保障に懸念が生じたりという事態も起きている


半導体に限らずコロナ禍で露呈したように、さまざまな原料や部品や完成品などの調達においても、安さを求めて海外製に依存し、結果として国内製造が衰退してサプライチェーンに支障をきたす事態も発生している。工業製品だけでなく農産物に至ってはもっと深刻で、日本の食糧自給率は生産額ベースでは66%(2019年度)だが、カロリーベースでは38%(2018年度)と世界で2番目に低く、ひとたび災害や戦争などが起これば、食糧の確保に致命的な支障を来たす状況にある


このように資本主義においては、個々の企業の業容や利益の拡大は必ずしも国民生活の向上や安全保障の強化に繋がらず、公共善的な観点から企業活動に一定の影響力を行使できる仕組みが必要ではないかとの思いがあった。企業のみならず国民(消費者)においても、品質に特段の問題が無ければ国内産業お構いなしで少しでも安いものを海外に求めるという消費行動があり、私なりの思いを提言に反映したつもりだ。


さて、本題前の横道はこれくらいにして、以前より気になっていながら、ようやく最近になって手に取ることができた表題の本を紹介したい


人新世の「資本論」 斎藤幸平 著 集英社新書 刊


「人新世(ひとしんせい)」とは、本書のまえがきによれば、ノーベル化学賞受賞者のパウル・クルッツェンの命名で、「地質学的に見て、(中略)人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした新たな年代という意味」で名付けられた時代区分とのこと。ちなみに現代について調べてみたら、地質年代的には1万1700年前から始まった新生代の第四紀の完新生と名付けられた年代に属するようだが、上述のように「人新世」という新たな地質年代に突入したとの認識が広まっている


そして「資本論」と言えばマルクスなのだが、最近の若い人にはピンとこない人も多いようだ。私の一回り上の「団塊の世代」が若かりし頃には、日米安保同盟や米国のベトナム戦争に反対し、ヘルメットを被った街頭でのデモ行進が盛んだった。中には「中核」だの「革マル」だのという過激な思想に入り込んだ学生もいて、大学占拠やセクト間の襲撃、仲間のリンチ事件などを起こすこともあった


さらには日本赤軍のような国際テロ組織に発展した超過激派もいて、よど号ハイジャック事件やあさま山荘事件、テルアビブ空港乱射事件などを引き起こすなど、暴れまくったグループもいた。このような社会を変えようという運動の思想的なバックボーンがマルクス・レーニン主義と呼ばれる共産主義だったわけで、「革マル」の「マル」もマルクスからきており、正式名は「日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派」という舌を噛みそうな覚えられない名前だ


私の世代にとっては「中核」も「革マル」も「やばいお兄さんお姉さんたち」というイメージで、ストライキを繰り返す国鉄(JRの前身)の国労や動労といった労働組合とも相まって、表層的にマルクスは「あぶない思想」と思い込んでいた学生が少なくなかったと思う。旧ソ連のような一党独裁と国営化の体制を指す「コミュニズム」の背景にある理論というようなステレオタイプなイメージだろうか(レーニンやスターリンがロシア革命を先導する際にマルクス主義を都合良く作り変えたのだが・・)


そもそもマルクスとは何なのかということで、大学の教養課程で文系の学生に混じって果敢にマルクス経済学を受講してみたり、弁証法的唯物論の本を気取って読んでみたりしたが、理系の私にはさっぱり理解できなかった(笑)

本題に入り損なって脱線が続いてしまったが、マルクスとその盟友エンゲルスが生きた『19世紀のヨーロッパは、産業革命によって社会が大きく変革し、資本金を手にしたブルジョワ階級が台頭し、極度の貧富の格差が生まれた時代』だった。『マルクスとエンゲルスは、人間の意思を離れて絶えず拡大しようとする資本に問題の原因を見て、資本主義批判と社会改革を主張』した(『 』部分は本書からの引用、以下同様)


大雑把にいえば、資本家は資本を元手に労働者を雇い原材料を購入して商品やサービスを生み出し、それを売ることによって提供した資本を回収できるリターンを得ようとする。分業方式などで生産を効率化して利益を最大化し、得られた利益でさらに大量に商品やサービスを提供し、より大きなリターンを得ようとする。このようにして、資本は自己増殖的に際限なく拡大し、利益を享受する資本家はますます裕福になり、労働者との貧富の格差が広がる


このような問題にマルクスが社会改革として考えた「コミュニズム」とは、『生産者たちが生産手段を<コモン>として、共同で管理・運営する社会のこと』だった。つまり、資本家が所有する土地、水やエネルギーなどの資源、そして道具・機械などを資本家から取り戻し、労働者が共同で管理し、生産活動を自主的に運営する共同体社会をつくり、富を公平に分配する。さらに生産性を高め、より豊かなコミュニティを目指すというものであった


本書によれば「資本論」第1巻を世に出した後、マルクスはエコロジーや共同体の研究を深め、第1巻で展開した理論を修正・強化する必要があると認識する。資本主義による生産の拡大は、例えば耕作を繰り返すことで農地の養分を過度に消費する。本来、農作物に取り込まれた養分は人間の排泄物として肥しとなり、土壌に捲かれて還元される。しかし、多くの農作物は都市部で消費され、養分が農地に戻るという循環が起きず、次第に土壌が疲弊し農業の持続可能性が犠牲になる。さらに養分を補充するため、リンやカリウムなどを含む岩石などを途上国で乱獲する問題を起こす。また、農地拡大のための森林の過剰伐採などは、後世へ環境破壊のツケを回す


マルクスは『資本主義は自らの矛盾を別のところへ転嫁し、不可視化する。だが、その転嫁によって、さらに矛盾が深まっていく泥沼化の惨状が必然的に起きるであろう』と気づいた。この資本主義の問題は、程度の差こそあれコミュニズムにおいても発生する問題である。マルクスは思索を続けたが、「資本論」を完成することなく没する。マルクスの草稿をもとに、第2巻、第3巻はエンゲルスによって完成された


近年、晩年のマルクスが思索し続けた膨大なメモやノートや書簡などから、マルクスが考えていた軌道修正の内容を明らかにする国際プロジェクトが動いており、著者もその一人として参加している。その中で、第2巻と第3巻は、マルクスが思索を深めていた軌道修正をエンゲルスが正しく理解できず、第1巻の文脈を踏襲して完成させており、再解釈が必要としている


本ブログで難解な「資本論」の詳細に入るつもりはないし、まともな解説など私にはできない。ただ、明治維新の頃、ちょうど渋沢栄一がパリで資本主義を見て、日本に戻り次々と会社を設立したその頃に、環境問題など『資本による転嫁』という資本主義の問題にマルクスが気づいていたことに驚くばかりだ


昨今、気候変動は待ったなしの問題であり、脱炭素化に向けてエネルギー政策や生産工程の見直しなどが国際的な課題になっている。カーボンゼロだけでなく、プラスチックゴミなどの環境汚染やアマゾンや東南アジアにおける森林伐採など、次世代に先送りしてはならない問題は山積している


著者は、SDGsなどに各国がコミットしたところで、資本主義を続ける限り、このような問題は抜本的に解決できないと指摘する。晩年のマルクスの思索の研究から、『「資本主義の超克」、「民主主義の刷新」、「社会の脱炭素化」という、三位一体の改革により、社会システムを大転換する』ことを本書で提言している。非常に興味深い本なので、ぜひ手に取ってみていただければと思う


個人的には本書の提言で世界を変えることは相当難しいと思っている。西側先進国を中心として、価値観を比較的共有できる民主主義陣営がいろいろな思惑を抱きながらも結束して取り組もうとしている。脱炭素社会に向けて自動車のEV化、エネルギー生成や製造工程の二酸化炭素排出ゼロ化など、対応が遅れれば国際社会からキックアウトされそうな勢いだ


限られた時間軸の中で環境悪化を反転させるためには、先進国と途上国、民主主義陣営と共産主義陣営、対立するすべてが手を携え合って取り組まなければ、思い描くようには進まないだろう。しかし、これから発展を遂げようとする途上国や、環境より経済成長や国家威信を優先する一党独裁国家がすんなり同調するとは思えない


仮に十分な協調を引き出せないとしても、経済の大きな部分を占め、環境に大きな負荷をかけている先進国の民主主義陣営が率先して取り組むことは、地球環境の改善に不可欠であることは疑いない。一方で、独裁的国家が環境問題を後回しにして経済成長を続ければ、パワーバランスがますます悪い方向に進んでいくと危惧される


西側先進諸国が率先して環境問題に取り組むとしても、資本主義をどう解体できるのか想像もつかない。著者は、解決に向けたムーブメントの一例として、「フィアレス・シティ(恐れしらずの都市)」の旗を掲げるバロセロナにおける市民主体の取り組みを紹介している。民営化されて資本の論理により期待するサービスが得られなかった上下水道や電気などのインフラを、公共財として市民が管理することに成功している

一都市のインフラのようなケースであれば、市民の手に戻して共同管理することも可能だろう。GAFAなどの巨大IT企業を例にとれば、これら企業の製品やサービスは、もはやグローバルなプラットフォームといっても良いほどに世界に浸透しており、GAFAは巨大な富と力を蓄積しつつある。アリババやテンセントのように巨大でも中国内のビジネスをメインとする企業であれば、共産党の力でねじ伏せることができるかもしれない

世界を牛耳るGAFAの場合は、4社の企業価値(時価総額)の合計が日本の全企業の企業価値の合計を越えている。日米欧当局が連携して規制をかけようとしているが、このような巨大な企業を一体どうしたら市民の共同管理に変えられるというのだろうか?

「資本主義のグレートリセット」に対する声は日増しに大きくなるが、本当に資本主義を解体できるだろうか?著者は過去のドラスチックなムーブメントを引き合いに出し、人口の3.5%が声を上げ率先して行動すれば、改革は実現しうると希望を語っている。ぜひそうあることを願ってやまないが、そのためには人心が変わることも大前提だ

中国の最先端研究「千人計画」には西側諸国を含めた多くの外国人科学者が参加している(日本人も40名以上)。母国とは比較にならないほどの研究費や実験環境を用意され、高額報酬も支払われている。生まれる研究成果は軍事への応用も含めて中国のために使用され、日本や同盟国には好ましくない事態も懸念されるが、科学者の研究への欲望は資本主義の企業の利益追求姿勢に似ていなくもない。冷静な科学者ですら欲求には勝てないとすれば、いわんや凡人をや、である


さて、冒頭で述べた私の拙案については、経済の規模ではなく一人ひとりが豊かさを感じられる質の追求への転換、自然循環との調和、国民の民主主義への参加など、方向性にさほどの間違いはないと思っているが、視点が狭かったと恥じ入っている。自然に向き合う道家思想のように内向き志向な提言だったかなと思う。例えば、本書で述べられているグローバルサウスを犠牲にした先進国の豊かさという観点から、グローバル視点での日本の取るべき政策までは考えが至っていなかった。バージョンアップが必要だと考えている

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