千葉県民になって20年になる。こんなに長くこの地に住むことになろうとは思いもしなかった。千葉県民といっても、すぐ近くを流れる旧江戸川を渡れば東京都なので、天気予報などは東京を参照している。日課としているTDR周辺のウォーキングでは、東京湾に向かって左手には市原から袖ケ浦、君津方面へと続く房総半島を、右手には羽田から三浦半島へと続く神奈川の海岸線を眺めながら歩いている。両半島が東京湾の入り口を形成する浦賀水道は10㎞の幅もないだろう
(ディズニーシーの外側から東京湾を望む。中央に白く見えるアクアラインの海上部分の左側に見える山並みが、南総里見八犬伝の舞台となる南房総の山々)
この浦賀水道の房総半島側、つまり東京湾が太平洋になるあたりの房総半島の地、現在の南房総市のあたりを物語の書き出しの舞台として書かれたのが『南総里見八犬伝』だ。八犬伝と言えば、2006年の正月にTBS開局50周年記念スペシャルドラマとして放送された「里見八犬伝」を思い出す方も多いだろう。今やジャニーズ事務所の社長となったタッキーこと滝沢秀明が犬塚信乃役をやっていた。伏姫(ふせひめ)は仲間由紀恵が演じた。八犬士には佐藤隆太、小澤征悦、照英などが扮していたようだが、さっぱり記憶にない(笑)
この「里見八犬伝」は2夜にわたり放送され、私も楽しんで見た。でも私にとって八犬伝と言えば、NHKの人形劇「新八犬伝」だ。1973年4月から2年間にわたり朝ドラのように毎日放送された。今は亡き坂本九が語りを担当し、操り人形は辻村ジュサブローが制作した。文楽のような人形で、凛々しくも愛嬌のある八犬士の人形に加え、怨霊となった玉梓(たまずさ)のおどろおどろしい人形や犬の八房(やつふさ)の間の抜けたような顔の人形が印象に残っている
当時、私は高校生だったが、年甲斐もなくというか、学校から帰ると毎夕この人形劇を見ていた。NHKの人形劇シリーズでは、東京オリンピックの年(1964年)から5年にわたり放映された「ひょっこりひょうたん島」同様、夢中になって追っかけた人形劇だ。余談になるが、「新八犬伝」と同じような時間に米国の「Star Trek」もやっていて、そちらも見ていた。初期の「Star Trek」なので戦闘シーンなどの特撮らしきものはなく、極めて形而上的なストーリーが多かった
私の思い出はさておき、本題の『南総里見八犬伝』について書いてみたい。
1)作者
作者は江戸末期の曲亭馬琴(滝沢馬琴)。1814年~1842年の28年間にわたり木版刷りの冊子として出版された。馬琴はこの物語の完成に、48歳から75歳に至るまでの人生後半を捧げている。その途中で67歳には右目の視力が落ち始め、73歳の時に両眼の失明に至りながらも、息子宗伯の妻であるお路(みち)に口述筆記をさせて最終話まで完成させた。全98巻、106冊である
当時の江戸庶民は、新刊が出るのを心待ちにし、大層な人気だったようだ。あたかも現代におけるOne Pieceのようだ。およそ3か月ごとに新刊が書店やコンビニにならび、ベストセラーになるのと同じだ。因みにOne Pieceの連載は23年になり、単行本は96巻まできている。息子と私がともに追っかけているので、我が家は全巻が揃っている
2)物語
多くの方に手に取って読んでもらいたいので、ストーリーのネタバレになるような記述は慎み、骨格だけの紹介に留めたい。より詳細な内容を知りたい方はWikipediaなどをご覧いただきたい
『南総里見八犬伝』の舞台は室町時代後期の安房(あわ)の国、房総半島の先端エリアだ。安房の国の城主、里見家の危機を救う八犬士の奇想天外な物語で、安房の国の北側にある上総(かずさ)の国、その上にある下総(しもうさ)の国、つまり現在の千葉県が物語の最初と最後のメイン舞台だ。中盤は八犬士が散らばっている関東甲信越の各地が主な舞台となる
そもそもの物語の始まりは、隣国に攻められ窮地に陥った里見義実が飼い犬の八房に語った「敵将の首を取ってきたら伏姫をやる」という戯れのつぶやきだ。城を出た八房が本当に敵将の首を咥えて帰ってくる。姫を犬に与えたくない義実が、他の褒美で済ませようとするが八房は引き下がらない。伏姫は父親に向かって、城主は約束を違えてはならないと言い、八房とともに富山(とみさん)の山中に籠る
翌年、山中で出会った仙童から懐妊を告げられた伏姫は、大変に驚き嘆き、身の清らかなることを晴らすため割腹して死ぬ。割腹した際に、お腹から白い霊気が立ち上り、伏姫の数珠がはじけて「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の各文字を持つ八つの玉が霊気に引き寄せられ、四方八方に飛び去っていく。これらの玉は、関八州の各地で生まれた八犬士となる八人の男の子のもとに様々な形で届く。やがて本人たちがその存在に気づき、同じような玉を持つ仲間に出会っていく
八犬士が旅をしながら仲間に遭遇してはまた分かれて他の仲間を探すという繰り返しだ。その過程でそれぞれの八犬士が仲間と知らずにお互いに戦ったり危難に遭遇して協力しあったりしながら各地で武勇伝を重ねる。足で探し回るので遅々として八犬士が揃わない。それでも最後には全員が滅亡の危機にある里見家に集い、大活躍して里見家を救う
旅を続けて仲間に出会い、最後に目的を果たすというストーリーもOne Pieceのルフィーと仲間たちに通ずるものがある。携帯による連絡もGPSによる位置情報の共有も当り前の現代の若者が読んだら、八犬士の遅々として進まぬ仲間探しは「何これ?」って感じで、感覚的に受け入れられないかもしれない。でも考えてみれば、明治初期までは飛脚による手紙しか通信手段がなかったわけで、京、薩摩、長州、越前などを動き回っていた坂本龍馬と連絡を取ろうとする仲間などは、さぞかし大変だったろうなと思う。だから、知らせは京の定宿の寺田屋や長崎の亀山社中に集まるようにしたのだろう
八犬士は以下の通り。苗字の頭に必ず「犬」の字を持つ
犬塚信乃、犬川荘助、犬山道節、犬飼現八、
犬田小文吾、犬江親兵衛、犬坂毛野、犬村大角
因みに犬塚信乃は豊島の大塚の村に生まれ育った。今の文京区大塚のあたりである。私が長く勤務した会社の本社がお茶の水女子大から歩いて15分くらいのところにあった。昼休みに散歩していたら、お茶女の敷地内にある付属中学を囲むフェンス脇の小径に地域の歴史などを紹介する案内板があり、そこには馬琴の八犬伝の犬塚信乃が生まれた大塚村はこの辺りであるとの記述があった。全くの余談であるが・・
3)中国古典の引用
ところで、『南総里見八犬伝』には、『水滸伝』、『三国志演義』、『史記』などの中国の歴史や物語が多く取り入れられている。例えば、中国の春秋戦国時代の終盤、紀元前280年ごろに、燕(えん)の国(現在の北京周辺の国)が楽毅(がっき)という稀代の武将に隣国の大国である斉(せい)を攻めさせて復讐する史実がある。70城近くを落とし、残り2城を残すのみとなる壊滅的な打撃を与えるのだが、残る2城の1つを守る田単(でんたん、後に斉の将軍となる)が孫氏の兵法の一つである「火牛の計」を用いて反撃する。千頭近く集めた牛の角に刃物を括りつけ、夜中に牛の尻尾に結んだ葦に火をつけて牛を暴走させ、敵軍の野営地に突入させる戦術であるが、八犬伝にも同じ戦い方が出てくる
この「火牛の計」は、中国の『史記』の列伝「田単伝」にあるもので、中国の古典を題材にした多くの小説を手掛ける宮城谷昌光の小説『楽毅』(新潮文庫、全4巻)にも描かれている。八犬伝には中国古典のパクリが多すぎるとの批判もあるが、事実は小説より奇なりともいうべきこれらの逸話の引用が、中華の古代史を知らない当時の庶民にとっては新鮮な驚きとなり、八犬伝をとても面白くさせたのだろう
ところで中国の歴史は本当に面白い。日本でいえば信長から家康に至る戦国時代のような物語が、中国の春秋戦国時代の約400年にわたっていくつも繰り返され、その後に続く項羽と劉邦の戦いによる前漢の誕生や後漢崩壊後の三国志の駆け引きなどは驚嘆するばかりだ。司馬遼太郎、宮城谷昌光、北方謙三などに、これらの時代を描いた多くの秀逸な作品がある。これも余談になるが、司馬遼太郎のペンネームは、『史記』を書いた「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の男」を意味して自ら名付けたとも、司馬遷のあざ名が遼原であったことから、司馬遷を慕って遼太郎にしたとも言われる
脱線ついでにもう一つ。『史記』と言えば、北方謙三に『史記 武帝記』(ハルキ文庫、全7巻)がある。前漢第七帝の武帝を描いた作品だが、司馬遷が『史記』を書いた時代だ。副題にあるように武帝が主人公なのだが、こちらも主人公と言ってもいいような軍人や文官など多くの実在した人物が登場する。中島敦の名著『李陵』(李陵・山月記 新潮文庫。青空文庫でも読める)の李陵もこの時代の軍人で、司馬遷とともに物語の後半を彩る重要な登場人物だ。それぞれに各人各様の生き様があり、史実にのっとりながらも北方謙三のイマジネーションにより見事に描かれている。皆さんはどの登場人物の生き様に共感するだろうか?
4)文体
『南総里見八犬伝』に話を戻そう。八犬伝の原本は七五調に準ずるような文体で、リズミカルかつ臨場感のある文章だ(岩波文庫、全10巻。まとめて購入すると10巻が一つの外装箱に入ったセットで購入できる)。文章はまるで講談師が扇子で机をパンパン叩きながら語るような感じである。速読しようと思っても頭の中でついつい音読してしまい、読むスピードが上がらなかったことを覚えている。明治の初期の教育において、この文章を児童に声を出して読ませたというのも頷ける
TBSの「里見八犬伝」を見た直後に、この岩波文庫を購入して読んだのだが、原本と言っても江戸末期の文章なので、古文にさして素養のない私でもさほど苦労せずに読み通すことができた。ぜひ多くの人に原本を手に取ってもらいたいと思う
「べかりけり」「そうろう」などの文章になじめない方は、現代語訳もいくつかあるので、そちらを読まれてはいかがだろうか。我が家にある子供用に購入したのは以下の本。子供が読んだかどうかは知らないが、息子の本棚には淘汰されず今も並んでいる
現代語訳 南総里見八犬伝 (河出文庫、上下2巻。白井喬二訳)
蛇足になるが、『南総里見八犬伝』以外にも手に取りたい日本の古典は多い。吉川英治の『私本太平記』(講談社文庫、全8巻、青空文庫でも読める)や平家物語(岩波文庫、全4巻。作者不詳。こちらも青空文庫にて原文で読める)。そして極めつけは源氏物語(角川ソフィア文庫、全10巻。紫式部著、玉上琢也訳)
もともとが琵琶法師による語りであった平家物語は、注釈の助けを借りながら原文でも読めた。あれだけ失政を続けた平家ではあるが、物語の最後は涙なしには読めない。平家物語から遡って100年くらい前に書かれた源氏物語はさすがに手に負えなかった。語りを文章にした平家物語と異なり、初めから書き言葉による物語なので、まさに古文という感じで、参照する注釈が多すぎて読み進めなかった。単身赴任時代に講談社の瀬戸内源氏(全10巻)で読み、あまりの面白さに上記の原本と現代語訳の対比本に挑んだが、桐壷源氏となった(第1話の「桐壷」で挫折することを言う)。桐壷以降は、二度目ながら物語の面白さに引っ張り込まれて現代語訳の方だけを一気に読み通した
源氏については、瀬戸内寂聴の他にも、与謝野源氏(青空文庫にて読める)、谷崎源氏、田辺源氏をはじめ、橋本治や最近では角田光代などが訳本を出しているので、コロナの外出自粛に手にされてはいかがだろうか。源氏物語については、いつかこのブログに書きたいと思っている