『極夜行』(文藝春秋 角幡唯介著)を読んで、山での夜明け前歩行について考えた

レビュー

山登りに出かけると、夜が明け始める前に動き出すことが多い。その日の行程が長いとか、午後になると天気が崩れるとか、夏は暑いので涼しいうちに距離を稼ぐとか、標高を上げたところでご来光を拝みたいとか、それなりの理由があって夜明け前から動き出す

岩稜帯のような滑落の危険が高い場所では、基本的にヘッデン(ヘッドランプ)がなくても周囲が見える程度に明るくなるまでは動かない。視認状態が悪いだけでなく、夜露で岩が滑りやすく危険度が増すので、危険なエリアは太陽の光で乾いた頃に通過するようにしている

一般的な登山道であれば、夜明け前に動き回るクマに出くわすリスクが高まることを除けば、さほどの危険はないので積極的に早立ちするようにしている。小屋で朝食を取っていると、その後のトイレも混雑して時間がかかるし、一斉に出立し始めるので登山道も人が多くなる

早朝起きてガサゴソやらずにすぐに出て行けるよう、前夜のうちにパッキングを済ませ、静かに布団をたたんで小屋を出る。夜明け前の静かな登山道を歩きながら、刻々と変わっていく黎明の地平線や山肌を眺めながら歩くのが好きだ

この写真は南アルプスの千枚小屋周辺から撮影したもの。素敵でしょ?2015年に南アルプス南部を荒川三山から赤石岳、聖岳と周回した。10月の秋深まりつつある頃なので、日の出の時間は遅いが、早朝はもう寒い時期だ。夜明け前とはいえ、これくらいになれば足元は十分に明るく、周囲の山も見渡せ、自分の立ち位置も良く分かる

黎明が訪れる前に出立することもある。その時はヘッデンがないと足元もわからない。月明かりがあるときは、目が慣れてくると登山道やトレースも見て取れるが、月が欠けていて光が弱いときは、星明りだけでは歩けない。まして曇り空やガスが出ているときは真っ暗だ

2017年に南アルプス北部の塩見岳と仙丈ケ岳を結ぶ仙塩尾根を歩いたときは、3日目の行程が長く、しかも午後3時頃には雨が降り出す予報だったので、真っ暗な中を早朝に出発した。この時はガスガスでヘッデンの明かりもガスに吸収されて自分の周囲1mくらいしか見えなかった

ハイマツ帯や灌木の間を縫って進むときは登山道らしきトレースが分かるのでよいが、ゴロゴロした石や岩が広がるガレ場のようなところにでると、途端にどちらへ進むのか分からなくなってしまう。明るければ少々距離があっても岩に書かれているペンキの矢印が見えて迷うこともないが、暗闇でしかもヘッデンが近距離しか届かないとなると話は別だ

GPSを取り出して登山ルートの上にいるのか、どちらに進むのかを確認しながらそろりそろりと進むことになる。GPSの恩恵を痛感するときである。これは真っ暗な時に限ったことではなく、雪山を歩いていると時々ホワイトアウトと呼ばれる状況でも痛感することである。ガスで視界が閉ざされ、周囲の雪の白と重なり、明るいのに周囲が真っ白で全く見えなくなってしまう。こんな時もGPSを頼りに進むことになる

こちらの写真は2019年に北アルプスの燕山荘付近で撮影したもの。5月で残雪の頃だ。日の出時間は早くなっているので、朝3時半くらいの写真になる。初めての山域だと、早朝の真っ暗な中では山小屋を出てどちらに進むかを見つけるのが大変な時がある。前日に進むべきルートを確かめておかないと、朝からGPSを片手に右往左往することになる

  

ところで最近読んだ本に「極夜行」という本がある(文藝春秋。角幡唯介著)。冒険家であり文筆家である著者が、グリーンランドの極夜の中を犬一匹と橇で旅をするのである

白夜というのは緯度が高いところで起こる現象で、太陽が地平線を這うように動き、一日中沈まない夜をいう。一方、極夜というのは同じく緯度が高いところで起こる現象で、太陽が全く昇らず日中も夜のような状態が続く。太陽が地平線のすぐ下を動いているときは、上の写真の黎明の時間帯のようにある程度明るくなるのだが、太陽が地平線からずっと下のほうを動くときは全くの暗闇になる

著者は極夜の中を歩き、2か月ほどして再び昇ってくる太陽を迎えた時に、どのように感じ何を思うのかを確かめるために北極圏を徒歩で旅するのである。ところで極夜を歩くとはどのような感じなのだろう。以下に著者の文章を引用する(138-139頁)

「この現実の経験世界に存在するあらゆる事物と同様、人間の存在もまた時間と空間の中にしっかりとした基盤を持つことで初めて安定する。安定するためには光が必要である。なぜなら光があれば自己の実体を周囲の風景と照らし合わせて、客観的な物体としてその空間の中に位置づけることができるからである。たとえば、周囲の山の様子が見えれば、あの山とこの山の中間ぐらいに自分は立っているというふうに、今の自分の空間的位置づけを客観的にかつリアルな実態として把握することができるだろう。そしてリアルに空間把握できれば、あの山とこの山の中間にいるから、今日はその間の川を下って海に釣りにでも行こう、などと未来の自分の行動を組み立てることもできる。このように具体的に未来予測できれば、少なくともその予測にしている期間の自分を生きている実態として想像できるわけだから、その間は死の不安から解放される。このように光があると人間の存在基盤は空間領域において安定し、同時に時間領域においても安定し、心安らかに落ち着くことができる。光は人間に未来を見通す力と心の平安を与えるのである。それを人は希望という。つまり光とは未来であり、希望だ。

ところが光がないと、心の平安の源である空間領域におけるリアルな実態把握が不可能となる。周囲の山の様子が見えないと、当然、自分が今どこにいるか具体的にわからない。居場所が分からなければ、近い将来、正しくない場所に行ってしまったり家に帰れなかったりする危険があるわけで、その結果、未来の自分の行動が予測不可能となり、明日生きている自分をリアルに想像できなくなる。つまり地図の中で自分の居場所が分からないと、単に空間的な存立基盤を失うだけでなく、自分の将来がどうなるかわからなくなることになり時間的な存立基盤も同時に失うわけだ。つまり闇は人間から未来を奪うのである。」

我々の多くはさほど意識することなく光の恩恵を受けており、著者もこの観点で述べているのであって、目の不自由な方が光を感じられないからといって、希望や未来を奪われているなどと言っているのではない

上の写真は2015年に八ヶ岳連峰の硫黄岳山荘付近から撮影したもの。11月の初めで山小屋の小屋じまいの日だった。小屋に残っているアルコールを夕食時に振舞ってくれ、飲みすぎて翌朝は少々二日酔い状態で小屋を出た。まだ太陽は昇っていないが、極夜とは程遠く十分に明るくヘッデンも不要だ

 

さて極夜の旅で、あえて文明の利器であるGPSを持たずに旅をする著者はブリザードに襲われ、天体観測で正確に位置を特定する六分儀を飛ばされてしまう。北極星など星空をもとに方角を見定め、月明かりやヘッデンを頼りに歩く

数年前から極夜ではない時期に下調べを兼ねて同じルートを歩いて、イヌイット(エスキモー)が狩りに使う番屋のような小屋に食料をデポ(貯蔵)して準備をしてきたのだが、苦労してたどり着くと、2か所のデポはともに白熊に食べつくされていて、食料にも窮することになる

デポした食糧で旅を続け、凍った海をカナダに渡って、最後は北極海を極点に向かって歩いて極夜の終わり、つまり太陽が昇るのを体感する計画だったが、これも断念せざるを得なくなり、2か月近くの極夜の旅の後に犬と一緒に出発点に戻ってくる。そして出発点の村に着くすぐ手前で極夜の終わりを迎える

私の雪山や黎明の山歩きなどとは比べようもないものだ。軽妙な文章で綴られてはいるが、マイナス30-40度の極寒の暗闇の中を1匹の犬と一緒に橇を引いて徒歩で旅する著者の冒険は壮絶なものだ。結果的には当初の計画とは異なる終わり方をするのだが、極夜の後の太陽を体感するという本来の目的は果たされる

著者が感じた太陽については、ぜひ本書を手に取って読んでいただければと思う

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